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あらすじ

 加納久恵は、彩美巧の元を訪れた。彩美は絶対色覚の持ち主であり、その能力を極限まで高めた創造主の目を持つといわれるネイルアーティスト。
 京都の山奥に住み、一日一件の依頼しか引き受けない。
 また、彼にネイルアートをしてもらった人は必ず幸福になれると言われている。
 そして、報酬はお金ではなく、その人のもつ「大切なもの」をもらう。

 久恵は、二十年前、夫が娘の生まれた記念にと、趣味の絵画の技法を生かして作った付け爪を火事で失ってしまい、同じものを再現して欲しいと彩美に依頼する。夫はその火事で亡くなっていた。
 加納久恵の娘の春奈は、中学を卒業後、火事の原因を作った母を恨み、家を飛び出した。
 その娘に付け爪を送りたいのだという。それは亡くなった夫との約束でもあった。

 久恵は自給自足の生活をしており、いつ娘が帰ってきてもいいようにと二人分を栽培していた。
 娘の分を彩美に度々おすそ分けしていた。
 そのこともあり、彩美は依頼を引き受ける。

 彩美は付け爪を完成させ、春奈の元に持っていく。
 彼女は家を飛び出し東京に行き、芸能プロダクションに誘われ、アイドルを目指すも三流のまま歳を重ねていた。
 彩美の作った付け爪を見て、春奈の頭の中に幼いころの火事の記憶がよみがえる。春奈が父の絵画用の溶剤をこぼしたことから静電気で引火したのが火事の原因だった。それをかばって母は自分の火の不始末だと言っていたのだった。
 事実を受け止めた春奈は、母の元に帰ることを決心する。

・登場人物
彩美巧(さいび たくみ) 二十九歳
 絶対色覚の持ち主であり、絶対色覚の能力を極限まで高めた創造主の目を持つといわれるネイルアーティスト。
(人間の目の網膜には、色を感知する「錐体」と呼ばれる三種の色覚細胞がある。それぞれが赤・緑・青を感知するが、すべてに健全な錐体を持つ、いわゆる絶対色覚を持つ人は一%程度である)
 アメリカでネイルアートの修行をし、ハリウッドの有名女優のネイルアートのほとんどが彼の作品だったが、その素顔は誰も知らない。
 日本に帰国後、京都の山奥に「愛爪庵」を開いたが、一日一件の依頼しか引き受けない。
 彼にネイルアートをしてもらった人は必ず幸福になれると言われている。
 報酬はお金ではなく、その人のもつ「大切なもの」をもらう。

加納久恵(かのう ひさえ)五十歳
 二十年前、夫が娘の生まれた記念にと、趣味の絵画の技法を生かして作った付け爪を火事で失ってしまい、同じものを再現して欲しいと彩美に依頼する。
 自給自足の生活をしており、彩美にも作った野菜を度々おすそ分けしている。

加納春奈(かのう はるな)二十歳
 加納久恵の娘。中学を卒業後、火事の原因を作った母を恨み(本当は春奈が絵画用の絵の具をいじっていて引火した。それをかばって母は自分の火の不始末だと言っていた)、家を飛び出し東京に行く。芸能プロダクションに誘われ、アイドルを目指すも、三流のまま歳を重ねていた。
 幸せになれるという彩美のネイルアートのうわさを聞いてライバルに勝つためのネイルアートをして欲しいと彩美の元に依頼に来る。

加納重文(かのう しげふみ)
 加納久恵の夫だったが、妻が外出中に火事になり、娘を助け焼死した。
 専業農家をやりながら趣味で絵画を描いていた。腕は一流で、多くの作品を描くも、火事ですべて消失した。

愛爪庵

 
 中学の卒業式から帰った加納春奈は、急いで身の回りの荷物をまとめた。
「さようなら」
 驚く母の久恵に追い討ちをかける。
「今日から一人で生きていくから」
 そう言って、卒業証書を母に投げつけた。
「待って、春奈……」
呼び止める暇もなく、春奈は家を飛び出した。

東京の繁華街を歩く加納春奈。
都会に来るのは初めてなのか、荷物を背負っておろおろしていた。
すると、男の人に声を掛けられた。
名刺を見せ、芸能プロダクションの者だと名乗った男は、
「芸能界に興味はない?」
 春奈が無視をしていると、
「もしかして、もうどこかに誘われてるとか」
 無視し続けようと思ったが、出てきたばかりで住むところもなかった春奈は、まあいいかという軽い気持ちで、
「いいわ。話を聞かせてちょうだい」
と誘われるまま付いていった。

五年後
京都の山奥を歩く加納春奈。木々に囲まれて空はほとんど見えない。
鳥や虫の声が心地よく聞こえてくる。
一時間歩き続けたが、誰とも会わなかった。
「あれ……、かな?」
ある小さな家を見つけて汗を拭きながら立ち止まる。
「まったく、なんて所に住んでるのよ」
その瞬間、ふと後ろから聞こえた足音に気が付いて振り返る。
誰かが坂を登ってきていた。
その人物の顔を見た春奈は驚いて、家の裏手に隠れた。
歩いてきたのは、加納久恵だった。
家を出てから五年がたったが、一度も連絡を取っていなかった。ひさしぶりに見た母は、ずいぶん老けたように見える。それに、だいぶ痩せていた。
春奈は息を殺して母の動きを見守った。

久恵は、「ごめんください」と言って家の中に入った。
表の表札には「愛爪庵」と書かれている。江戸時代の俳人が住んでいた家を再現したような風情のある家だ。自然に囲まれ、仙人でも住んでいそうだった。
庭の小さな池には鯉が泳ぎ、時おり獅子脅しが鳴る。

家の中では和服姿の男、彩美巧が付け爪に色付けをしていた。
襖を開け広げた部屋から中庭が見える。
真剣な眼差しで筆を操る。一瞬で美しい文様が付け爪に浮かび上がる。
お客に気が付いた彩美は挨拶した。
その表情から、二人は顔見知りのようだった。
「いつも大切に育てられた野菜をいただきありがとうございます」と彩美。
「とんでもない。できの悪い野菜で恐縮です」
「ところで、今日はどんな用件で? 少し緊張なさっているような表情からすると、何か頼み事かな?」
「鋭いお方……」
「これを見てください」
久恵は、一枚の写真を見せる。
そこには付け爪が写っていた。ネイルアートとして海の絵が描かれている。壮大な冬の海を表現した迫力のある作品だった。しかし、古い写真で、黄色味を帯びていたため、はっきりとした色は分からなかった。
「青一色で描かれた海の絵のネイルアートか、狭いスペースの中で見事に海の荒々しさと優しさを表現している。かなり高い技術で描かれた日本画ですね」
 と言い、写真に目を近づけ続けた。
「ネイルアートを生業にして十年が経つが、これほどの作品はめったに見かけたことがない。ぜひ実物を見てみたいですよ」
 彩美と目が合うと久恵は戸惑いの表情を浮かべた。
「実はそれは夫が描いたものなんです」
「旦那さんが、それはすばらしい。写真の様子から推測すると二十年ほど前に撮られたのだと思うが、その当時にネイルアートを描いているとは……。旦那さんは今でも日本画を描かれているのですか?」
「いえ、夫は亡くなりました……」
「そうですか、それは残念なことです」
「夫は農家をしながら、暇を見つけては好きな日本画を描いていました。それは、絵の具を手作りするほど凝ったものでした。何度か展覧会で入賞したこともあります。そのネイルアートは二十年前、娘が生まれたのを記念して夫が描いたものです。『お前にやるが、娘が二十歳になったらプレゼントしてやってくれ』そう彼は言いました」
「……」
「しかし、十年前、わたしが庭でゴミを燃やしたあとの火の不始末が原因で家が火事になったんです。娘は夫がなんとか逃がしてくれたんですが、夫は焼け死にました。その際、大切にしていた付け爪も焼失してしまいました」
 久恵は、彩美の言葉を最後まで聞く前に土下座した。
 突然のことに驚く彩美。
「あなたは絶対色覚を持っていて、どんな色も忠実に再現できると聞きました。そして、ネイルアートの技術も一流だと」
「お願いです。そのネイルアートと同じものを再現して作ってください」
 久恵の目は潤んでいた。
「娘は今年で二十歳になります。夫と約束したとおり、彼の作った付け爪をプレゼントしたいんです」
「どうして、そこまでその付け爪にこだわるんです?」
「娘は五年前に家を出て行きました。それ以来一度も連絡を取っていません。唯一の絆はその付け爪なんです。娘は昔、わたしが付け爪をしているのを見て、『早くわたしも二十歳になってつけてみたい』そう言っていました。だから、付け爪さえ手に入れば、もう一度、娘と対等に話ができる。そう思うんです」
「父を失う原因を作ったあなたを恨んで家を出ていった娘と仲直りしたい。そういうことですか?」
「はい」
真剣な久恵の顔をしばらく見つめて彩美が続けて言った。
「わたしはオリジナルデザインのネイルアートしか作らないことにしています。だから、人の作ったものをコピーする仕事はしていないんですよ」
「そうですか……」
「でも、あなたにはお世話になっているし、この写真のネイルアートに興味があるから、今回は特別に引き受けましょう」
「ありがとうございます」
 久恵は深々と頭を下げたあと言った。
「付け爪の製作に対する報酬のことなんですが……」
「わたしは自分の命を削ってネイルアートを作成します。だから、それに見合った報酬として、お金ではなくその人の大切にしているものをもらうことにしています」
「大切なもの……、ですか……」
「でも心配は無用。あなたからはすでにもらってますよ。食べてしまいましたが」
 と笑顔を見せた。

久恵が帰ったのを確認すると、隠れていた春奈が姿を現し、庭を歩いていった。
庭側の戸を開け、久恵から借りた写真を眺めながら考え事をしている彩美に話しかけた。
「ねえ、あんた彩美巧でしょ」
 彩美は春奈を一瞥して言う。
「人の家に勝手に入ってくるような女に知り合いはいないが」
「あんたのことは調べさえてもらったわ」
「……」
「人間の目の網膜には、色を感知する『錐体』と呼ばれる三種の色覚細胞があるわ。それぞれが赤・緑・青を感知する。だけど、すべてに健全な錐体を持つ、いわゆる絶対色覚を持つ人は一%程度」
「あなたは、その絶対色覚の能力を極限まで高めた創造主の目を持つといわれるネイルアーティスト。あなたに出せない色はないと聞く」
「……」
「そして、あなたにネイルアートを描いてもらった人は、必ず幸せになれる」
「幸せかどうかは自分の心が決めることだ。わたしのネイルアートにはそんな力はない」
 目を合わせずに言う。
「わたしにもネイルアートをしてちょうだい」
ぶっきらぼうに言う春名を横目で見ながら、彩美が言う。
「何ゆえ、あなたはネイルアートを希望する?」
「こう見えても、わたしは芸能人なの。いわゆる売れないアイドルってやつ。今年で二十歳になるけれど、若い新人も増えてきて、このままだと事務所をくびになりそうなの。だから、ライバルに勝って幸せになるためにネイルアートをしてほしいの」
 彩美の顔色を確認しながら続けた。
「それに、あなたにネイルアートをしてもらったって言えば話題性もあるしね」
「せっかくだがお断りする。わたしは一日一件の依頼しか引き受けない。もう、今日の仕事は引き受けた」
「母が今日の客ってこと?」
 一瞬間を置いて、彩美が言う。
「久恵さんは君の母親だったのか」
「ええ」
「どうせ君は芸能界で成功して、自分が母に頼らなくてもやっていけると見せ付けたいのだろう」
「そうよ。悪い? あいつの世話になるくらいなら、死んだほうがましよ。あんな野菜を作るしか能のないやつなんか無視して、わたしの依頼を引き受けたらいいわ」
「そんなに母親が嫌いか?」
「当たり前よ。あんたもさっき聞いたでしょ、母の火の不始末が原因で父は死んだんだって」
「本当にそうかな?」
「えっ」
「君の母は、自分が火事の原因を作ったことを後悔している様子はなかった。あの優しい女性がだ。だから、真実は別にある。そう思うが……」
「……」
「それに、久恵さんの依頼は、君のためでもあるんだぞ」
「あんたはうまく騙されてるだけよ。わたしのためなんかじゃないわ。あいつは一人で生きていくのが寂しくなって、父の形見ともいえる付け爪をもう一度手に入れたくなっただけ。父の思い出に浸りたいのよ。わたしにくれるわけない」
「本気でそう思うのか?」
「ええ」
 すっと立ち上がると、彩美は言った。
「やはり、君の依頼は引き受けられない。明日来ても無駄だ」
「そう、報酬が必要なのね。だったら、わたしが五年間でためたお金、全部をあげるわ」
「わたしのことを調べたのなら知っているだろう、報酬として受け取るのはお金ではなく、依頼者の大切にしているものだ」
「わたしにとって大切なのはアイドルで成功することとお金を稼ぐこと、それだけよ。だから、そのお金をあげるって言ってるのよ」
「とっとと東京に帰るんだな」
「なんですって」
「大切なものという言葉の意味をよく考えるがいい」
 突き放された言い方に腹を立てた春奈は、
「うるさい、この役立たず。もうあんたなんかに頼まないわよ」
 とそう叫んで、帰っていった。
「今回の依頼、失敗するわけにはいかないな」
そう呟き、古ぼけた写真を手に取った。

彩美は写真を眺め、頭の中で二十年分の色の劣化を排除し、カメラの前に置かれていただろう実物の付け爪に描かれた日本画の色を想像した。

久恵さんは、夫は日本画の絵の具を自作していたと言っていた。
それなら、使っていたのは色の付いた天然の鉱石を砕いて作る岩絵の具に違いない。ガラスに金属酸化物を加えたり、方解石に色をつけた新岩絵の具というのもあるが、工業的に生産されるものであり自作には向かない。

鉱石には自色と他色があり、岩絵の具として使えるのは自色。
他色の鉱石には本来色はなく、純粋なものは白または透明な結晶となる。色がついて見えるのは微量に含まれる金属イオンや、放射線などの影響により分子配列が変わるためだ。  
発色はある程度、数が集まらないと人間の目には色として認識されないから、岩絵の具にしようと他色の鉱石を粉にすると色を認識する為の絶対量が足りず、色が消えてしまう。
 自色の鉱石はその化学式に金属イオンを含んでいるため、粉になっても色が残る。

写真で見る青色は、ラピスラズリの青だと推測できる。

ラピスラズリの化学組成式は (Na,Ca)7〜8(Al,Si)12(O,S)24[(SO4),Cl2,(OH)2]
ラピスラズリは通称で、鉱物名は青金石という。
海中で堆積して出来た石灰岩に花崗岩マグマが接触した時の化学反応で作り出される何種類かの鉱物の内の一つだ。
特殊な元素や温度条件が必要なので、世界中でも産地は限られている。ロシアのバイカル湖、アメリカのニューヨーク州やチリでも産出するが、……。
やはり、古代から採掘され現在でも最高品質を誇っているアフガニスタンのバタフシャン地方産のものを使ったに違いない。
昔は高価なものだったが、アフガニスタンが戦争の資金源として活発に採鉱したから今はさほど高くない値段で売られている。

鉱物を選んだらまず細かく砕く。
ここで注意しないといけないのは、砕いたときの粒子の大きさだ。岩絵の具は粒子が細かいほど色が薄くなる。濃い色を出したい場合は少し粗く、薄い色が欲しい場合は出来得る限り細かくする。
絵の具は粒の大きさを、三〜二百ミクロンの範囲でいくつかの段階に分けて作る。
大きさを体積で表すと、二十七〜八百万立方ミクロン。一番小さなものと大きなものを比較すると、三十万倍位違う。
一番細かい粉を白(びゃく)という。
この粒子の大きさの違いにより、微妙な色の違いを表現する。

細かくしたら乳鉢に取り、膠(にかわ)水でゆっくり混ぜ合わせる。
−膠とは、動物(牛・くじら・魚類など)の結合組織・皮・腱・軟骨質などから得られる粗製のゼラチン。定着剤として使用する−
これで岩絵の具は完成だ。

次に絵だが、江戸末期以降、西洋の油絵の技法が普及し始めたとき、西洋画との区別を設けるために、日本画という言葉が生まれた。
油絵は乾湿油で、日本画は膠でというふうに、顔料を何で溶くかの違いが、その違いの一つとして揚げられる。
しかし、西洋絵画にも、膠を使った膠絵は存在するので、それだけで区別することはできない。
同じ、顔料を使っていても、気候や風土により、また、何で溶くか、何に描くかにより、発色や、描いてからの経年変化が違うため、描かれた地域によって、たくさんある顔料の中でも、その地域の風土や文化にあうものが選択され、洗練されてきた。
その選択と洗練が、どのような美意識で、どのようになされてきたかが、日本画と他の国の絵画との違いといえる。日本の気候には、四季があり、緑と水に恵まれた特色のある風土であり、そこから生まれた日本独特の美意識がある。

娘が生まれた喜びを込めて描かれた海。その心に触れなければ、同じ絵柄を再現することはできない。
創造主の目で写真に写った絵の色使い、タッチを見れば、自然と彼の心がレコードを再生するように、わたしの中でよみがえる。

岩絵の具を皿の上で膠水を加えて、中指でよくなじませる。
次に、描き易いよう水を加えて濃さを調整し、中指でよく練る。
このとき、膠が濃いと、絵の具の発色が悪くなり、薄いと絵の具が定着しない。

和紙をアクリル製のネイルチップに合うように切る。
墨で線描。
それに下地として胡粉と黄土色を全体に薄く塗り、バックの方から岩絵の具の色を置いていく。
今度は、それを慎重にネイルチップに張り合わせる。

「完成だ。これこそ彼が思い描いた海だ」
 彩美は、出来上がった付け爪を見ながら言った。

 付け爪ができたと聞き、久恵が愛爪庵を訪ねた。
「あなたの旦那さんが作った付け爪はこれですね」
 彩美が見せたのは、ネイルアートを施した付け爪だった。青一色の濃淡だけで海の雄大さを見事に表現している。
「すばらしい。狭い空間に海の息吹が圧縮されている」
「気に入ってもらえて光栄です」
 役目を果たせたと安心した彩美に久恵は思いがけないことを言う。
「でも……」
「えっ」
「みごとな作品ですが、夫の描いた作品とは違います。どこが違うとははっきりと言えないんですが、ただ……」
「ただ?」
「青色が違うように感じます」
 その言葉に驚く彩美。
「色が違う……」
彩美は何が間違いだったか理解できないでいた。
久恵は、残念そうに帰っていった。

彩美は久恵が言った色が違うという言葉の意味を考えながら、寝転がって天井を眺めていた。しばらくして、白かった部分が黄色くなってきているのを見て、何かに気がつき飛び上がった。
走って久恵の家に行き、
「何か他に付け爪の色に関して情報はありませんか? なんでもいいんです」
 と訊いた。
「色についてって言われても……」
「あっ、そういえば、夫は付け爪に描いた絵にタイトルをつけていました」
「どんなタイトルですか?」
「緑の海」
 首をかしげて続ける久恵。
「最初聞いたとき不思議なタイトルだと思いました。どう見ても青なのに緑の海だなんて」
「なるほど。わたしの考えは間違っていなかったようです」
「それともうひとつ聞きたいことがあります」
「何ですか?」
「旦那さんが亡くなったという火事のことなんですが……」
 はっとした顔を見せる久恵。

彩美は材料を求めて、久恵の夫の生まれ故郷である栃木県日光市に向かった。
日光市の小来川鉱山で岩絵の具の顔料に使う鉱石を掘る彩美。
思うような鉱石がなかなか見つからないが、何日か後に、やっと掘り当てた。
「これだ……」

テレビのワイドショーでアイドルの加納春奈が過労で入院したことを報道していた。一流アイドルではないので大きくは扱われていなかった。他にニュースがなかったから報道したといった感じだった。
春奈の入院している病院。
春奈はつまらなさそうに寝転がって天井を眺めていた。
「こんなところで何やってるんだろう。わたしは……」
そこに誰かが突然現れる。
人影に目を向ける春奈。
「あ、あんたは、彩美巧」
「どうも、ニュースを見てね。おじゃまだったかな?」
「わたしの落ち込んでる顔でも見て、笑いに来たんでしょ」
「……」
 春名は急に長い髪の毛を束ねると、はさみでばっさりと切った。
 そして、それを彩美に差し出す。
「わたしにネイルアートをしてください。あなたのネイルアートが最後の希望なの」
「この髪が君の大切なものか?」
「今のわたしにはこれが精一杯よ」
「だめだな」
「そう、やっぱりね。断られるって分かってたわ」
 と落胆しながら言った。
「こっちの希望を言おう。わたしのネイルアートを希望するのなら、報酬は、君がもっとも大事にしているアイドルという職業をやめることだ」
 一瞬の間を置いて、ため息混じりに春奈が答える。
「はー、それはだめよ。アイドルで成功したいためにネイルアートを希望してるのに
 意味がなくなるわ」
「これを見てもそう言えるかな?」
 彩美は久恵の依頼で製作した付け爪を取り出した。
 青い一色で海が描かれた付け爪。
 以前、久恵に見せたものと同じもののように見えるが……。
春奈は、その付け爪を見ると顔色が変わった。
見開いた目で虚空を見つめた。

春奈は過去を思い出していた。
火事で父が死んだ日。
母は買い物に出かけていた。
十歳になったばかりのわたしは父に言った。
「お父さん見て、こないだ図工の時間に描いたの」
 見せたのは、学校の裏庭の紅葉の木の絵だった。赤や茶の葉が風に舞っている。
 大胆な色使いが特徴的な美しい絵だった。
「へー、俺よりうまいじゃないか」
 と笑顔で言う父。
父に褒められて嬉しかったわたしは父に近づこうとした。が、父が絵の具や紙を貼り付けるのに使っていた薬品が入った瓶に手が触れ、床にこぼした。
慌てて拭こうとしたが、わたしのセーターの静電気で着火した。
有機溶剤特有の黒い煙が一気に部屋に充満していく。
父は自分に火が移るのもおかまいなしでわたしのセーターを脱がせた。
父の体に火が燃え広がっていく、そして、紅葉の絵も燃えていく。幸い、わたしの体は軽い火傷ですんだ。
「お父さん……」
 それだけ言うと、わたしは泣き出した。
「春奈逃げるんだ」
 叫ぶ父だったが、わたしは足がすくんで立ち上がることもできない。今にも火に飲まれそうだった。
父は最後の力を振り絞り、春奈を乱暴に掴んだ。
「ごめんな……」
わたしの目を見てそう言うと、父はわたしを二階の窓から外へと放り投げた。
溶剤の燃え方はすさまじく、瞬く間に家中が黒い煙で覆われた。
 わたしは屋根を転がり、木の枝がクッションになって芝生の地面に落ちた。
 目に映る火の勢いに圧倒されながら、気を失った。
 病院のベッドで目を覚ましたときには、火事の時の記憶を失っていた。

 春名は息を荒げる。
「わたしだ。父が焼死する原因を作ったのはわたしだった……、わたしが溶剤を溢したから火事に……」
 手を震わす春奈。
―現場検証すれば火事の時の状況なんてすぐに分かったはず。だから、母は、わたしのせいで火事になったことを知っていたに違いない―
 春奈の頬を涙がつたう。
「母はわたしに恨まれることを分かっていて嘘を……。わたしが自分を責めてつらい思いをするくらいなら、自分が恨まれようと……」
「君も二十歳になるのなら、そろそろ、真実を受け止めてもいいころだろう」
 春奈は彩美の言葉をかみ締めた。そして、
「……どうやってこれを?」
 と付け爪を見ながら訊いた。
彩美はゆっくりとした口調で説明を始めた。

 その付け爪を作る上での最大のポイントは、色だった。
 青一色で描かれた日本画をどんな絵の具を使って再現するか……。
 青の岩絵の具は何種類かあるが、その中に「藍銅鉱」というものがある。
藍銅鉱の化学式はCu2(OH)2(CO3)2。
化学式の中にある『銅イオン』によって青色に見える。

藍銅鉱はおよそ三つのタイプに分けられる。
 第一のタイプは結晶しているもので、青の色が濃すぎて黒っぽく見えるが、透過光では濃藍色であることがわかる。
 第二のタイプは結晶せずに孔雀石と混合しているもので、研磨されて宝飾品が作られたりもする。
 第三のタイプは一〜三cm大のボール状になっているもので、それを割ると、内部は孔雀石となっていたり、中空になっている部分に藍銅鉱の微結晶が生えていたりするもの。

問題は藍銅鉱と孔雀石の関係だ。
藍銅鉱は青で、孔雀石は緑なのだが、孔雀石の化学式はCu2(OH)2(CO3)と成分的には藍銅鉱とそっくりなので、掘るといっしょに出てくることが多い。
また、藍銅鉱の成長中に途中から孔雀石になってしまうこともある。さらには、一度出来上がった藍銅鉱の結晶が、少しの条件変化で孔雀石に変わってしまう仮晶という現象を起こす。
それは、孔雀石の方が藍銅鉱より化学構造上安定しているためだ。そのため、孔雀石から藍銅鉱への変化は起こらない。
つまり、藍銅鉱から作った青色の岩絵の具は、長い年月の後、緑色へと変化することがあるのだ。

フィレンツェの画家、ジオット(一二六七〜一三三七年)の描いた絵画の中には、空の色が緑色に見えるものがある。青色に藍銅鉱の顔料を使用したためだ。制作当初は青い色だったが、空気中から水分を吸収し、何百年の時を経て緑色の孔雀石に変化したのだ。
 君の父が付け爪に書いた絵画に付けたタイトル「緑の海」とは、長い年月をかけて青色の海が緑色になるということを意味して付けられた名前だろう。

「久恵さんは、わたしがラピスラズリで表現した青を違うといったがそれは正しかった」
 彩美は写真を取り出し、続けた。
「この写真は付け爪を描いたときに撮ったもの。しかし、毎日眺めていたという久恵さんの記憶の中の付け爪は、火事で失う直前に見たもの。だから、十年の差がある。その間にも少し色の変化があったのだろう。それが、わたしが写真の絵を忠実に再現して作った付け爪との違いだった」
 もう一度、付け爪をじっくり眺める春奈。
 彩美は続けた。
「わたしは、君の父の生まれ故郷である栃木県日光市の小来川鉱山で採掘した藍銅鉱から顔料を作り、十年分の色の変化をつけた。だから、本物と同じになったのだ」
「わたしには、写真の付け爪の青もあなたの作った付け爪の青も同じに見えるのに……」
「藍銅鉱の青から緑への変化は長い年月が必要だ。十年の色の違いを見分けるのは、普通の人には不可能なこと。君の母の付け爪に対する思いはそれほど大きいということだ。決して、思い出に浸るために依頼したのではない」
 そう言った彩美の指を見て春奈は、はっとした。
―この人の指、こないだ綺麗だったのに、ぼろぼろになっている。わたしたち親子のために大切な指を犠牲にして試行錯誤を……−
 真剣な表情で彩美は問いかける。
「君はわたしのネイルアートを受け取るか?」
 優しい表情になった春奈は迷わず答えた。
「はい」
「君の母は、いつ君が帰ってきてもいいようにと、二人分の野菜を育てている。わたしは、その大切な野菜を分けてもらっていた」
 母の元に帰れるよう背中を押す言葉を掛けてくれた彩美に向かって春奈は言う。
「いつかわたしの育てた野菜も食べてください」
 すでに部屋を出ようとしていた彩美は、春奈を背にして答えた。
「待っている」

 END