雨は絶え間なく降り続けていた。深い灰色の雲から吐き出される水滴は、尾を伸ばしながら地面へと降り注ぎ、濡れたアスファルトには水溜りが何箇所もできていた。学生たちはそれを避けながら、早足で歩いている。
大学の学生食堂。鈴木明美は、外の様子をカーテンの隙間から覗く窓越しに眺めていた。ガラスは水滴で滲み、歪んだ風景を見せていた。
明美の右手の箸は、何も挟まないまま空中で止まっている。
「どうしたの明美。ぼーっとして」
古宇田奈保が明美の目の前で、手の平を上下に振りながら言った。繊細な細い指先の色鮮やかなマニュキアが宙に舞う。
明美はびくりと顔を動かしたあと、
「あっ、何でもないわよ」
慌てたような声で言って、箸でジャガイモを刺した。
「もう何日も、太陽を見ていないなあと思って」
呟くような声だった。
「梅雨なんだから仕方ないじゃん。暗い顔していたってしょうがないわ。すぐに夏になって、雨が恋しくなるわよ」
「夏といえばさあ、三人でどっか旅行に行かない? 学生最後の夏休みなんだし、ぱーっと海外旅行なんてどう?」
小野ひかりが両手を広げながら言った。
彼女の目の前には、すでに空になった食器が置かれている。
「いいわね。私たちは全員就職の内定は貰っているわけだし、心置きなく遊べるわ。そうすると問題はお金ね」
奈保は細くカットされた眉を寄せた。
「バイトしてるんでしょ?」と明美。
「そんなの服買ったり、化粧品買ったりしていたらすぐ消えちゃうわよ。明美はおしゃれにあんまり感心ないみたいだから、分からないと思うけれど」
そう言って奈保は人差し指で光る金色の指輪を、いじるように触った。
「お金なんて親からもらったらいいのよ。学生最後の夏休みなんだからって言ったら出してくれるわよ」
ひかりが唾を飛ばしながら言った。
その当然といった言い方が気にさわったのか、明美は口をしっかりと閉じて、目を伏せた。
「じゃあ、決まり。夏休みは海外旅行ね。明美も行くよね?」
「ん? うん、行けると思うわ」
奈保の勢いに押されて、一瞬、間を置いてから、小声で言ったものの、眼鏡の奥の目は力なく、半ば閉じられていた。
奈保は明美の様子など気にもしないで、カバンから携帯を手早く取り出した。
その様子を見て、
「電話?」とひかり。
「違うわ。彼からのメールよ。午後三時くらいから遊びに行こうって」
と言いながら、返事のメールを馴れた手つきで打っている。
「そう。いいわね。午後の講義は出席取らないし、さぼっても大丈夫よね。私もどっかに遊びに行こうかしら」
そう言って、ひかりは目だけを天井に向けると、
「明美あとでノート見せてくれない?」と携帯を取り出しながら続けた。
肩の辺りまで伸びた金色の髪がぱっと揺れた。彼女たちは、こういう時の行動だけは素早い。
「あっ、ごめん。今日は私も用事があるから……」
慌てたような強めの口調だった。その唇は微かに震えていた。
「そう、珍しいわね。いいわ。他の人に頼むから」
言い終わらないうちに、メールを打ち始めていた。
しばらく、ひかりと奈保の目は携帯の画面に向けられ、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
明美はそれを横目で見て、小さく溜め息をついたあと、
「ところで、奈保。ストーカーに狙われてるって言っていたけれど、もう大丈夫なの?」
「あんなの大したことないわよ。盗撮した写真を送ってきたときにはちょっとびっくりしたけれどね」
楽しんでいるかのような弾んだ声だった。
「でも、電話も掛かって来るんでしょ?」
「ああ、電話ね。今も時々掛かってくるわよ。でも、怖くもなんともないわよ。ボイスチェンジャーか何かで、声を変えているんだと思うんだけれど、迫力がないのよね。口調がなよなよしているっていうか、女っぽいっていうか。あれじゃあ、小学生だって怖がらないわよ」
と言って、声を出して笑った。
「そんなことを言っていて、襲われでもしたらどうするのよ」
明美が真剣な表情で、奈保の目を見ながら言った。
「そのときは逆にやっつけてやるわよ。どうせ、やせっぽちの、ろくに女と話もできないような弱っちい男に決まってるわ。そんな奴に負けるわけないじゃない」
「それならいいけど……」
テーブルに残った小さな染みを見つめながら言った。
外の雨は激しさを増し、外を歩く人々は傘を差しても、足元はしっかりと濡れていた。窓ガラスにも雨が勢いよく当たり、ポップコーンが弾けるような音をたてている。冷たさが部屋の中まで、突き抜けてくるようだった。
明美は外を一瞥して、勢いよく立ち上がった。
「それじゃあ、私は先に帰るから」
食器の乗った盆を持ち上げる。
「また明日ね」
奈保があいさつしたときには、すでに明美の姿はなかった。
ぐるりと見回してから、
「今日の明美、なんか変じゃなかった?」
「そう? いつも通りなんじゃないの」
ひかりが気のない返事をする。
「そうかもしれないわね」
再びメールの画面に目を戻した。
雨と風の影響で、午後になっても気温は上昇してこなかった。半袖で歩く人は皆、雨を恨むように身を縮めていた。
古宇田奈保も同じように身を低くして、ヒールの高い靴で器用に水溜まりを避けながら歩いていた。
時折立ち止まり、傘をひょいと上げて前方を確認した。その仕草は、どこかあどけないかわいらしさがあった。
「ああ、もうやだ。こんなに濡れちゃったわ」
マンションの玄関で、傘を閉じながら奈保が言った。
傘から雨水がさーっとこぼれ落ちていく。足元を見ると、ストッキングが水分を吸収して、膝から下の色が濃く変化していた。
――あーあ、早く着替えないと、デートに間に合わないわ。
そう考えて歩き出したとき、ポストが目に入った。名札には古宇田奈保と書かれている。
どこにでもある、銀色の箱がいくつも並んでいるポストだ。
普段は気にもしないで通り過ぎていくのに、今日は珍しく気になって見た。というのも、封筒らしきものが、ポストからはみ出るように差し込まれていたからだ。
――何かしら?
手に取ってみると、想像したよりも重い。封筒の底には平たくて四角いものが入っているのが手触りで分かった。
振ってみると、かたかたという音がする。
――何これ? 爆弾じゃないわよね。
不吉な考えが一瞬頭をよぎったが、まさかね、とすぐに否定した。
封筒の口はのり付けされていなかったので、ゆっくりと探るように中を覗いてみると、黒いものが見えた。
それを確認して、
――なんだ。ビデオカセットか。
と安堵の溜め息を漏らす。
カセットにラベルは貼られておらず、何を録画したものかは分からない。普通のビデオデッキで再生可能なVHSタイプのカセットだった。
――誰からだろう?
奈保は封筒の表裏を確認したがやはり何も書かれていない。
――ビデオなんか誰にも頼んでいないし、誰かが間違えて入れたのかもしれない。とにかく内容を見てみて関係なさそうだったら、このまま戻しておこう。間違いに気が付いて取りにくるはずだわ。
そう理由を付けて奈保はビデオカセットを持って部屋に向かったが、何が撮されているんだろう、という純粋な好奇心も手伝っていた。
奈保の部屋はワンルームで、別に台所とユニットバスが付いている。
女の子らしく、カーテンと絨毯は薄いピンク、布団は赤といったように部屋全体が暖色系の色で統一されている。
掃除もしっかりしているらしく、ゴミが貯まっている様子はない。
ベッドが窓際に置かれ、その正面に低い机がある。床に座って食事をするのに使用している。窓とは反対側の壁には、テレビがもたれ掛かるようにして置かれていた。テレビの置かれた台には、ビデオデッキが収納されている。
奈保はベッドにショルダーバッグを投げると、床に座ってストッキングを脱いだ。
時計で時間を確認する。二時十五分。
「まだ、待ち合わせの時間まで余裕があるわね」
奈保は袋を逆さまにしてカセットを取り出すと、ビデオデッキに突っ込んだ。モーターが回る低い音がして、ビデオカセットが吸い込まれていった。
大きな目をより大きく開いて、奈保は画像が映るのを待った。崩した足の上に乗せられた手はしっかりと握られている。
しばらく砂嵐が続いたあと、最初の映像が映し出された。その瞬間、奈保は身を乗り出し、思わず声を出した。
「これって、私の通ってる大学じゃない」
目の前のテレビ画面の中には大学の門を正面から撮影した映像が映し出されていた。
門から出てくる人たちは傘を差している。
どうやら雨が降った日に撮影されたらしい。
――誰が、何のためにこんなことを。しかも、私に送りつけてくるなんてどういうわけなの?
思考を巡らせているうちにも映像は進んでいた。
ふと、画面に目を戻すと、見慣れた傘を差した人物が門を出てきた。
奈保はぴくりと眉を震わせて、
「う、うそでしょ。これ……。私だわ」
よく見ると奈保自身の姿が映っていた。そのあと、画面は奈保を追いかけるようにして移動していった。
奈保は撮影されていることに気が付かないで歩いていた。
「まさか、私を盗撮した映像?」
強く閉じられた口は微かに震えている。大きく息を吸って、心臓の鼓動を押さえるように胸に手を当てた。
――スートーカー男の仕業ね。
唇を思い切り強く噛み締めた。
――それにしても、いつ撮影したのだろう。全く気が付かなかった。前に写真を送ってきたけれど、今回はビデオか。
奈保はストーカーに関して、明美には強がって、何とも思ってない、と言ったけど本当は違っていた。気味が悪くて玄関の鍵も増やしたし、夜に出かけるのもなるべく避けていた。
彼氏に助けを求めようと、奈保は携帯電話に手を伸ばした、が、その手は電話を掴む前に引き戻された。
「これは、何日も前に撮影されたものじゃないわ」
そう呟いた言葉は波打っていた。
画面の中の奈保は、器用に水溜まりを避けて歩いていた。アスファルトに水溜まりが出きるほどの大雨は記憶にない。
となると、ついさっき自分がした行動を写されていた、と結論づけるしかなかった。よく見ると、服装も今着ているものと同じだ。
――撮影してすぐにポストに入れたってこと?
奈保は自分がマンションの入り口に着いたとときには、まだこの映像を撮影した犯人が近くにいたかもしれない、いや、まだ今もいるはずだ。どこかに隠れて部屋の中の様子をうかがっているに違いない。
そう思って、身を縮めた。
外界と遮断された部屋の中に、ビデオデッキがテープを回すモーターの音だけが、お経のように延々と続く。
異様な状況に正常な思考ができなくなった奈保は、海で溺れたようにもがきながら、携帯電話に手を伸ばした。
しかし、触れたとき、部屋に大きな音が鳴り響いた。耳を付き刺すような、高い音だった。
その瞬間、奈保はびくりと跳ね上がるように背筋を伸ばした。胴体全体が心臓になったかのように激しい動悸がした。
奈保はその音が部屋の電話のベルだということに気が付くまで数秒かかった。
ベッド脇に這いずるように移動すると、背の低い棚に乗せられた電話の受話器を持ち上げた。奈保は、助かったと思った。相手は誰でもいい、この独りきりの緊迫した状態から抜け出すことができたと感謝した。
「もしもし、古宇田です」
すがるような声だった。しかし、奈保の問いかけに電話の相手は返す様子はなく、電話の向こうからは物音一つ聞こえなかった。
奈保には自分の吐き出す荒い息使いだけが聞こえる。
「もしもし」
もう一度話しかけた。やはり返事はない。奈保の顔はみるみる青ざめていく。急いで受話器を置こうとしたが、手が震えて、うまく置けない。
やっと置けたときには、額から汗が頬まで流れ落ちていた。
「あいつだ。あの男だ」
いつもは声を変えて話しかけてくる変質者の男が、今日は無言だった。それがかえって不気味で恐怖心を倍増させた。
――やっぱり誰かに電話しよう。
そう思ったとき、目の隅に思いも寄らない映像が入り込んできた。
「今の私が映っている」
奈保は画面から目を離すことができずに、雛人形のように蒼白な顔で固まった。
画面の中の奈保は、自分の部屋の中でテレビを見ていた。窓の方から撮影された映像のようだった。しかも、テレビには今見ているのと同じビデオの映像が流れている。つまり、今、ビデオを見ている風景そのものが映し出されていた。
――さっき見つけたビデオには、すでに私がビデオを見る場面まで録画されていたということだ。しかし、そんなことは不可能だ。未来を撮影するなんて。
奈保はゆっくりと片手を上げた。それと同時に、画面の中の奈保の片手も上がる。
奈保は動物が発するような声を上げた。全身が震え、立ち上がろうと思っても力が入らない。
風の強さが増し、窓を叩くように、雨が吹き付けた。怒りを表しているかのような強い振動が奈保にも伝わり、体の震えを助長した。半開きのカーテンが、抵抗するように微かに揺れていた。
恐怖が絶頂に達し、うめき声を上げながら、ビデオデッキの停止ボタンに指を伸ばした。奈保の頭は、映像を止めることしか考えられなくなっていた。しかし、ボタンを押すが、映像は止まらない。
――どうしよう。お願い。止まって。
心で叫びながら何度も押す。しかし、止まらず、奈保をあざ笑うかのように、動き続けた。
画面の中には、ビデオを止めようとする自分の姿が映し出されていた。
――だめだ……。
諦めかけたとき、画面が砂嵐に変わった。波音のような耳にこだまする音が響く。
どうやら停止したらしい。
「やっと止まった」
一時でも恐怖から解放されたと、奈保は大きく深呼吸した。
安心したのか、肩の力が抜けて、だらりと腕を落とした。
――いったい何だったのだ。それとも、これは悪い夢なのだろうか。
そう考えたとき、ビデオデッキの画面が目に入った。
「うそ。まだ動いている」
ビデオの再生時間を示すタイマーは時を刻み続けている。
――まだ止まってない。
砂嵐のようなものもビデオの映像だった。
奈保は慌てて画面に目を戻した。その瞬間、画面に見知らぬ女性が映し出された。どこかの家の中で立つ、セイラー服を着た若い女の子だった。おそらく高校生だろう。
画像はさっきまでのような鮮明なものではなく、古い映画のように薄い白い線が、雨が降るように流れている。
奈保は目を凝らした。女性の髪は長く、腰のあたりまで伸びている。髪に隠れて、顔の輪郭ははっきりしないが、口元は笑みを浮かべているように見える。
――誰? 女子高生の知り合いなんていないけど......。
そう思ったが、画面の中の女性をどこかで見たことがあるような気もしていた。
奈保は薄い唇を引き締め、不安げな表情を浮かべた。
画面の中の女の子は、屈み込んだ。そのとき、横顔がアップになった。
「この子、ひょっとして……。でも、そんなことはありえない」と首を振る。
呟いてる間に、女の子の手は床に寝そべった見知らぬ女性の首に掛けられ、そのまま、力強く締め上げていく。
その女の顔は仁王像のように、眉間に皺を寄せ、恨みのこもった目で横たわる女性を睨み付けていた。そして、ちらりと奈保の方を見た。その目は大きく開かれ、真っ赤に充血していた。
奈保は強く息を吸い込みながら、手で口を押さえた。
「真由子だ。間違いない。でも、真由子は、自殺したはずだわ」
死んだはずの真由子が映っている。
奈保はこの時、首を絞められているのが、自分であることに気が付いた。画面の中の自分は、身動き一つしない。すでに事切れているに違いなかった。
――自分が殺される。
その言葉が頭の中で何度も反芻された。
――このビデオは、ストーカー男が置いていったものではなかった。真由子だ。真由子だったんだ。真由子の幽霊……。
無数の涙が奈保の頬をつたっていく。
「ごめん、ごめん、ほんとにごめん。許して……」
テレビの前でひれ伏すようにして、頭を床に擦り付けた。
奈保のすすり泣く声だけが、部屋に響く。
――ビデオの内容は、今日の出来事だった。ということは、今見たのは未来の映像だ。今日これから起きる出来事だ。
そこまで考えると、逃げるように玄関へと這いずった。足腰には力が入らず、立ち上がることができない。
突然、ひやりとした冷たさを足に感じた。人間の手に握られたような圧力が、足首に掛かっている。
奈保は見上げるようにして振り返った。そこには、テレビの画面で見た真由子が立っていた。血の気のない白い顔で、奈保を見下ろす。セイラー服からは、水滴がぽたりぽたりと滴り落ちていた。
奈保はひっという声にならない叫び声を上げた。
奈保の首は一瞬にして真由子に握られた。細い色白の首に、真由子の指が食い込んでいく。奈保は抵抗することもできず、ただ口を金魚がするようにぱくぱくと動かした。
薄れていく意識の中で奈保は、許して、と何度も呟いた。しかし、それが言葉となることはなかった。
奈保の頬を流れた涙が床にこぼれ落ちるのと同時に、奈保の体は操り手のいなくなったマリオネットのように、崩れていった。
前日まで降り続いていた雨も一段落し、雲の合間から太陽の光が射し込んでいた。濡れたアスファルトの道路は、宝石を散りばめたように輝いている。
大学の講義室。明美は光を避けるように、カーテンを閉めてから席についた。
ひかりは講義室に入ってくるなり、首を大きく回転させた。そして、見つけた人物のもとに駆け寄った。
「明美、今日の新聞見た?」
明美が振り返ると、息を切らせたひかりが立っていた。額には汗が滲んでいる。
「どうしたの? 私は新聞を取ってないから読んでないけど、何かすごいニュースでもあったの?」
「これを見て」
と言って、ひかりは慌しく新聞を取り出すと、机の上に押さえ付けるように置いた。
ひかりが刺す指の先を見た明美は、
「女子大生が首吊り、自殺か?」
見出しを声に出して読んだ。
「これがどうかしたの?」
「内容を読んでみて」
ひかりのいつにない真剣な表情に、明美は首をかしげながら、再び目を落とした。
「都内の私立大学に通う古宇田奈保(二十二)が、自宅で首を吊っているのを......」
鳩のように首を動かして、
「古宇田奈保って」
「そう、奈保よ」
明美は一瞬黙ったあと、
「うそでしょ、昨日まであんなに元気だったあの子が自殺だなんて、しかも、首を吊るだなんて、どうしてそんなことを」
声を荒立てた。
「奈保の彼が、待ち合わせの時間になってもいっこうに現われない奈保を心配して、家まで呼びにいって、発見したそうよ」
「そうだったの」
「でも、自殺って決まったわけじゃないみたい。よく読んでみて。奈保の自殺したすぐ近くには、ビデオテープが落ちていて、それには奈保を盗撮した映像が収められていたそうよ」
「ビデオテープ?」
「奈保が自分で撮影するとは思えないから、誰かが撮影したんだと思うけど、その撮影した人物が怪しいわね」
明美は、はっと目を見開いて、
「もしかして、例のストーカーの仕業?」
「分からないけど、その可能性もあるわね。警察も奈保がストーカーに狙われていたという情報を得て、そのストーカーを捜索しているみたいよ」
息を整えるように、ゆっくりと言った。
「自殺じゃなくて、他殺かもしれないってことね」
「もし、自殺に見せかけた殺人だったとしたら怖いわね。そんな殺人鬼が、今もこの近くをうろついているってことだから」
と言って、ひかりは胸に両手を当てて身震いした。
「でも、どうしてビデオを残していったんだろう。ビデオがあったから、ストーカーが犯人かもしれないってことになったわけでしょ。もし本当にストーカーが犯人なら、置いていったのはおかしいと思わない? 残していかないで、持って帰りさえすれば、疑われずにすんだかもしれないのに」
「それもそうね。ビデオテープがなかったら、自殺で終わっていたかもしれないわ。わざと置いていく必要もないだろうし……」
「わざとか……。もしかしたら、首吊り自殺に見せかけたことと、盗撮のビデオを置いていったことは、何か関係があるのかもしれないわね」
「どういうこと?」
「首吊り自殺と盗撮のビデオには何か意味があるかもしれないってこと。この殺人の動機に関係した何かのね」
ひかりは眉間に皺を寄せ、考えるようにしばらくうつむいた。そして、何かに気が付いたように、顔を跳ね上げた。
その行動を不審に思った明美は、
「どうしたの?」
いくらか間があってから、
「いや、何でもないわ」
ひかりはそう言うと、すばやく新聞をたたんで、バッグに詰め込んだ。
「何か思い当たることでもあるの?」
「な、何もないわよ。ほら講義が始まるわ」
そう言って、何かを話しかけていた明美を制した。明美はそんなひかりを不思議そうな目で見ていた。
小野ひかりは独り、家に向かっていた。
頭上には黒みを帯びた雨雲が立ちこめている。
――首吊り自殺と盗撮ビデオ……。
自然とゆっくりとした足取りになった。
ひかりの頭の中にはある光景が浮かんでいた。季節はちょうど今頃、雨のぱらつく日だった。ある女性に向かってビデオカメラを向けている自分がいる。その隣には奈保の姿もあった。木の生い茂る山の中での出来事だ。
「これって、このくらいの暗さでも撮影できるの」
とビデオカメラのファインダーを覗きながら奈保に聞いた。頭上では厚みを増した雨雲が太陽の光を遮っている。
「大丈夫よ。夜に撮影してもきれいに撮影できていたわよ」
高校生らしからない濃く塗られた赤い唇が上下した。
「最近のは、小型でも優秀ね」
「ほら早くやっちゃってよ」
奈保が彼氏にけしかける。
「ほんとにいいのか」
押された男は、戸惑いの表情を浮かべながらそう言った。
「いいのよ。この子、ちょっとかわいいと思って調子に乗ってるから、お仕置きよ」
「分かったよ。お前がそこまで言うならいいけど」
奈保に腹を蹴られた真由子は、低いうめき声を上げ、そのまま地面に倒れ込んだ。膝をついたとき泥が跳ねた。
「なんだこいつ、泥かけやがって」
大きく岩のようにごつごつとした手が真由子の胸元に伸びる。
「止めて……。お願い」
泥にまみれた顔から水滴が流れた。雨に混ざった涙だ。
真由子は首を掴まれたカマキリのように、手を必死に動かした。色白の腕が、みるみる土と同じ色になっていく。長い黒髪は泥水に浸かり、地面に埋まっていくように見えた。
真由子は悲鳴を上げようとするが、男にすぐに口を押さえられた。唇が切れて、血が流れ出す。真っ赤な液体は、雨で滲みながら首筋をつたっていった。
私は一部始終を、カメラ越しに眺めていた。
あのとき私は、その光景を、まるでドラマの一シーンのような、どこか別世界での出来事に感じていた。温かい部屋のカーテンの隙間から、寒い外を除くように。
耳には遠くで流れる川の音が、気の利いたBGMのように流れていた。
――まさか、あのときの……。
しかし、そんなはずはない。彼女は死んだはずだ。
打ち消そうとするが、どうしようもない不安感が雨雲のように心を包み込んでいた。傘を持つ手に力が入る。
「奈保の次は私?」
という言葉を呟いたとき、ひかりの住むマンションはもう目の前だった。
ひかりは虚ろな目をしたまま、玄関へと向かったが、入り口で着地を決めた体操選手のようにぴたりと止まった。ひかりは胸のあたりに、ハンマーで殴られたような衝撃が走り、それが全身へと伝わっていた。
自分のポストに封筒が、無造作に差し込まれているのを発見したのだ。しかも、四角い輪郭が浮かび上がっている。
ひかりは瞬間的に、それがビデオだと想像した。
ゆっくりと手を伸ばしたひかりは、ビデオに間違いない、と手触りで判断した。
周りに人がいないことを確認すると、それを奪うように取って、部屋に向かった。全速力で走った。途中何度か後ろを振り返った、が、誰の姿もなかった。
部屋に入ると、急いで鍵を閉め、チェーンも掛けた。
「ふー」
一段落して、ひかりは安堵のため息をもらした。部屋は、奈保の住んでいたのと同じような学生用のワンルームマンションだ。
ひかりは台所で水道の蛇口をひねって、口の渇きを潤した。冷たい水の感触が、気持ちを落ちつかせてくれた。
ひかりはテレビの前に座ると、ビデオカセットの入った封筒を両手で持ち、目の前にかざした。
――奈保も同じようにビデオを受け取ったのだろうか。
口元に残った水滴を服の袖で拭き取ると、口元をきっと引き締め、封筒からビデオカセットを取り出した。
カセットがデッキに吸い込まれると、ひかりは再生ボタンを押した。その指先は力が入ったようにぴんと張っていた。
真っ黒な画面がしばらく続き、画像が映し出されると、体を硬直させた。
――大学の門だ。
通り慣れた門が大きく映し出された。煉瓦を積み上げた立派な門だ。そこを学生たちが笑顔で歩いていく。
その普段見慣れた風景も、ひかるには今は始めて見るような新鮮な感覚があった。
一分が過ぎた頃、ひかりの姿が見えた。
「あっ、私だ」
ひかりはやはり盗撮映像だったのかと冷静に考えた。心構えができていた分、驚きは少なく、奈保のように恐怖を感じることもなかった。
映像の中のひかりは頬を硬直させ、神妙な面もちで歩いている。ひかりはそれが今日撮影された映像だとすぐに気が付いた。
――撮影したばかりか……。いつの間に。
撮られていたことに感付くことができなかった悔しさで、唇を噛みしめた。そして、撮影した人物が、奈保を殺害した人物だと直感した。
「奈保は、このビデオを見たあとに殺されたんだ」
両手をぎゅっと握り締めた。
突然、部屋に電話のベルの音が響いた。ひかりは喉を絞めつけられたような悲鳴を漏らした。全身に戦慄が走った。
狭い部屋の中で、ベルの音は警報のように鳴り響いていた。
ひかりは机の上に手を伸ばした。
「もしもし、小野です」
と低い、小さな声で言う。
反応はない。電話の向こうの人物は、押し黙ったままだ。
「もしもし」
今度は大きめの声で言った。しかし、電話から聞こえてくるのは自分の吐く息の音だけだった。
ひかりは叩きつけるようにして受話器を置くと、
「いたずら電話か」
と吐き捨てた。
――ひょっとしてビデオを置いていった人物が掛けてきたのだろうか。そうだとすると、私が部屋にいるかどうかチェックしているんだ。
そう考えると、ひかりは鍵が掛かっているか確認するように、入り口のドアに視線を移した。不信な様子はない。
視線をテレビ画面に戻したとき、ひかりは首をすぼめるような動作をして、両手で口を押さえた。一瞬の動作だった。
「どうして? 私がテレビを見ている」
画面の中のひかりはテレビを見ていたのだ。しかも、自分の部屋でだ。
――何これ、こんなの嘘よ。
ひかりは今の自分の像が映し出されていることに、疑問を持った。ビデオカセットの映像だとすると、未来に起こることを撮影したことになる。
――そんなことできるはずがない。何か仕掛けがあるはず。
そう思ってビデオに目をやり、何かあるはずだと、せわしなく首を動かした。
「何、このコードは?」
ビデオデッキの裏に、見たこともないコードが接続されていた。どこに繋がっているのだろうかと元を辿ろうとしたとき、画面から耳が張り裂けそうな雑音が聞こえた。周波数のあっていないラジオのような音だった。
目を画面に戻すと砂嵐になっていた。
「何よ、いったい。ビデオは終わり?」
ひかりがそのまま眺めていると、人の姿らしきものが映し出された。
鮮明でない画面の中で、遠くに映ったのその姿はゆっくりと拡大されていく。
ひかりはその姿が制服姿の女の子だと気が付いた。女の子の髪は真っ黒で湿っているように見えた。別のカメラで撮影したかのように、さっきまでの映像より画質は、はっきりと落ちていた。
ひかりは顔を確認しようと、テレビから顔を離し、目を凝らした。少女は微かな笑みを浮かべると、ゆっくりとかがみ込んだ。床の上には別な女性が横たわっている。
ひかりの頭の中には高校時代に撮影したビデオの映像と、今見ている映像とがオーバーラップしていた。
全身が釘で打ち付けられたように動かなくなった。
――この女が真由子だっていうの。
ひかりは荒い息を整えるように深呼吸した。
――私たちに恨みを晴らすっていうこと?
画面の中の真由子は、横たわった女性の細い首を両手で締め付けている。
この殺されそうな女性が、自分であることにひかりは気が付いていた。
首を掴まれたひかりは、能面のように白い顔で、表情を変えずに彼女の軍門にくだった。
――これが私の未来の映像ってわけね。でも、将来に起きることを撮影するなんてできるわけない。
カーテンの向こうからは、弱い雨の音が、地面に染み込んでいくように穏やかで、しかも、永遠に続きそうに聞こえていた。
「真由子は生きている。あのときの恨みを晴らすために、私たちを殺しにきたんだ」
勢いよく立ち上がり、一歩足を踏み出した。その刹那、ひかりは自分の体が床に落ちていくのを感じた。床に肘を打ち付け、腹這いに倒れた。
うっと声を漏らす。
足首に何かが引っかかった。ひかりは苦痛に顔を歪めながら、ゆっくりと体を反転させ、足に顔を向けた。足には白い棒のようなものが繋がっていた。
ひかりはそれが人間の手であることに気が付くと、視線をさっと上げた。人間と目が合った。
「ま、真由子」
ひかりが震える声で言うが、真由子は何も答えない。答える代わりにひかりの体の上に乗りかかった。
「あんた生きていたの?」
体が縮み上がったひかりは抵抗できないまま、真由子に首根っこを掴まれた。それを振りほどこうと真由子の手首を握る。
「ご、ごめん。真由子。許して」
と声を絞り出した。しかし、益々真由子の力は増していった。ひかりは悶えながら手を伸ばした。それが偶然にも真由子の髪を掴んだ。濡れた髪の生暖かい感覚が体を流れる。目を瞑り、そのままありったけの力で引っ張った。
「あっ?」
と声を出したとき、真由子の手の力が緩んだ。ひかりの手は髪の毛を掴んだまま床に当たっていた。
「か、かつら?」
真由子は慌てた様子で、取られた髪の毛の方を見た。真由子だと思っていた人物は、かつらを被って変装していた別人だった。
「あんた、真由子じゃないわね」
ひかりは起き上がりながら、真由子を振り落とした。
「あんた誰? こんなふざけたまねしてどういうつもりよ」
「ふざけたまね? それはこっちのセリフよ」
そう叫んだあと、ひかりを睨み付けた。ひかりは薄暗い部屋の中でその顔をはっきりと確認した。
「あんた……。そ、そんな、うそでしょ」
握ったままだったかつらが指の間を通るようにすり抜けて、絨毯に落ちた。
「ちぇっ、もう少しで殺せたのに。でもいいわ。殺すだけならどうにでもなる」
ポケットに手を突っ込むとアーミーナイフを取り出し、刃先をひかりに向けた。
「予定変更、これで喉をかっ切ってやる」
薄闇で見えたナイフは、切れそうには見えなかった。ひかりは冷静さを失わず、
「ちょっと待って。一つだけ教えて」
「何?」
「どうして奈保と私を狙ったの?」
女は薄ら笑いを浮かべて、
「前ら二人がむかつくから」
「そんな理由で?」
「なんていうのは嘘よ。ふふふ」
口に手を当てて笑った。
「冗談言ってないで教えなさいよ。私が聞きたいのは、あんたが何で私たちを殺さなければいけないかってこと」
「じゃあ、教えてやるよ。お前ら真由美をレイプしただろ。しかも、それをビデオカメラで撮影した。忘れたとは言わせないわよ」
ひかりは押し黙ったまま次の言葉を待った。足が震えて立っているのがやっとだった。「彼女の名字を覚えている?」
その言葉に反応するように、ひかりは肩をぴくりと動かした。
――真由子の名字は、鈴木。
ひかりは後退りしながら、
「ま、まさか」
「そう、お前の考えた通りよ。真由子は私の妹」
風に揺られた窓が小さな音を立てた。夕方になり風の強さが増しているようだ。ひかりの額からつたった汗が顎から落ちた。
「明美、あんたが私たちに近付いたのは、真由美の復讐をするためなの?」
「そうよ。友達のふりをして殺すチャンスをうかがっていたのよ。間抜けなお前らは、気が付かなかったみたいだけどね」
ひかりは言葉の途中で、ドアに向かって走り出した。数メートル走れば玄関だ。鍵とチェーンロックも数秒あれば外せる。明美の足音は聞こえない。
飛び掛るように、ドアノブに手を伸ばした。が、手が届く前に、ヘッドスライディングをするように前のめりに倒れた。肩が床に激突した。不思議と傷みは感じなかった。代わりに、太ももの裏から、脳が破壊されそうなくらいの激痛が伝導した。
「逃げようなんて甘いわよ。持ってるナイフは一本じゃないのよ」
さっきとは別のポケットから、アーミーナイフを取り出した。さっき明美が持っていたナイフは、ひかりの太ももに深々と刺さり、真っ赤に染まっていた。
ひかりは観念したように床にへばりついていた。鉄臭い血の匂いで全身の力が抜けていった。
「今度はこっちの質問。お前らは何で真由美を襲った?」
明美は、ひかりを見下ろして言うとかがみ込み、ひかりの顔を、力ずくで自分の方に向けた。そして、ナイフを首筋に近づけると、
「さあ、答えなさい」
「明美も知っていると思うけれど、私たちがバスケットボール部で三年生のとき、真由美は一年生だったわ」
「それで?」
「それなのに彼女はレギュラーになった。奈保と私が補欠だったのに」
弱々しい、途切れそうな声だった。
「それだけ? そんな理由であんなことをしたっていうの? あの子はお前らなんかより何十倍も努力していたのよ。レギュラーになって当然よ」
ナイフを持つ手に力が入り、ひかりの喉に赤い線が入った。その線は次第に太くなった。
「ごめん。ほんとにごめん。でも、ちょっと悪ふざけしただけ」
「悪ふざけだって? ふざけるな。真由子はあのあと自殺したのよ。それのどこが悪ふざけなのよ」
「自殺するなんて思わなかったの。ほんとよ、信じて」
「ふん。そんな都合のいい話が、信じられるか。とにかく、お前らは真由美を死に追いやったんだ」
明美は腕時計で時間を確認した。
「時間を掛け過ぎたわね。そろそろ死んでもらうわ。死んで、真由美に詫びてちょうだい」
首に当てたナイフを握り直した。押さえ付けた明美の指先に、子犬のように震えるひかりの振動が伝わってきた。もう普段のような、強気のひかりの姿はなかった。
明美は、いつの間にか自分の手にも、同じ種類の震えが生まれていることに気が付いた。目を閉じて、もう一度ナイフを握り直す。しかし、すぐにナイフを首から遠ざけた。
「やめた。やっぱりお前には自分で首を吊って死んでもらうわ」
明美はひかりの腕を掴むと、引きずるように部屋に運んだ。刺さったナイフと肉との間から血が心臓の鼓動に合わせて流れ出た。
ひかりは徹夜した次の日のような思考がはっきりとしない状態になり、痛みも和らいでいた。
カーテンレールに麻紐を結びつけ、輪を作ると、明美はひかりに首を突っ込むように促した。ひかりは低い椅子を足場にして、紐に顔を近づけた。
「こんな傷を負ってたんじゃ、自殺に見せかけられないわよ」
「誰が自殺に見せかるなんて言ったのよ。私はお前に、真由美と同じ苦しみを味わって死んで欲しいだけよ」
「やっぱり、あのビデオはそういう意味で見せたの?」
ひかりがテレビに目を向けると、白黒で無秩序な画面が映っていた。
「そうよ」
「でも、未来に起こることを撮影するなんて、いったいどういうトリックよ」
「どうせあんたは死ぬんだから教えて上げるわ。今日撮影したのは、お前が家に向かうシーンだけよ。撮影が終わったら先回りして、ポストに入れておいたの」
「残りの映像は?」
「最後の首を絞めるシーンは前もって撮影しておいたのよ。もちろん相手はマネキンだけどね」
自分だと思ったのは、ただのマネキンだったのかと、ひかりは苦笑した。
「でも、それでは、私がビデオを見る所は撮影できないわ」
「ふふふ、あれはビデオの映像ではないわ。隠しカメラで撮影した映像よ」
カーテンの脇に隠されたカメラの位置を指差した。その先には小型のカメラがあった。
「そういうことか」
ひかりはビデオに夢中で、カメラのことにはまったく気が付いていなかった。
「私はお前が部屋に入る前から、部屋のベッドの下に隠れていたの。部屋には無断で作った合い鍵で入ったわ。そして、お前がビデオを再生するのを確認する。
ある程度まで再生されたら、電話をかけ、そっちに注意を向けさせる。その隙にテレビの画面を、予め部屋に仕掛けておいた盗撮カメラの映像に切り替える。これはリモコンで操作したわ。
しばらくそれを見せたあと、もう一度、電話を鳴らす。そして、ビデオに戻し、早送りして真由美に変装してマネキンの首を絞めるシーンを流す。それを見て、お前らは昔を思い出すっていう計画だったのよ。
お前のときは、危うく見破られそうになったから作戦を変更したけれど、奈保のときは、そのあと、ビデオを止めたらすばやくベッドの下から抜け出して姿を見せた。恐怖で動けない奈保の首を絞め、自殺にみせかけ首をロープでしばったの」
明美はそう誇らしげに語ると、何かを思い出すようにちらりと天井に目をやった。
「死ぬ間際、奈保は何て?」
「必死に謝っていたわよ。真由子ごめん、許してって、涙を流しながらね。結局、最後まで私のことを真由子だと思っていたみたいだわ」
「それを聞いて、復讐なんて止めようと思わなかったの?」
「思わないわよ。むしろ腹立たしかったわ。この期に及んで命乞いをするなんて」
「うそよ。本当は殺人なんて止めようと思ったはず」
「どうしてそう思うの」
明美は驚いたような声を出した。
「私の知っている明美は優しい子。人の命を奪って平気なはずがないもの」
一瞬、目線を反らしてから明美は、
「何度言ったら分かるのよ。全部演技だったのよ。私の中に優しさなんてものは存在しないわ。あるのは、冷酷冷徹な復讐心だけよ」
「そうかしら。妹のためにここまでするなんて、それも明美の優しさなんじゃないの?」
「うるさい、うるさい。早く首を吊ってしまえ」
怒鳴るように言ったが、その目に涙が浮かんでいることをひかりは見逃さなかった。
「いいわ。死んであげる。でも、これだけは忘れないで」
そう言ったとき、いくつもの大粒の涙がひかりの頬をつたっていった。
「奈保と私は、普段はあんなんだったけれど、心の中では真由子に対して申し訳ないという気持ちを常に抱いていたわ。取り返しのつかないことをしてしまったっていう罪の意識よ。山の中での出来事を一日だって忘れたことはなかった。
自分たちはひどい人間だから、人を死に追いやるようなことをしても当然だ、と自分に言い聞かせるために厚い化粧をし、着飾り、憎まれ口を叩き、自分を悪い人間のように偽っていたの。あんただけじゃない、私たちも自分をごまかしていたのよ。でも、やっと楽になれる。これで罪が償われるのなら……」
ひかりは紐の輪に首を通した。明美はあっと声を出して、手を出そうとしたが、すぐに引っ込めた。
「明美、あんたは素直に生きて」
ひかりの最期の言葉だった。ひかりは椅子を蹴り出した。がくんと体が下がって、弱く揺れた。ひかりは歯を食いしばり、苦痛に耐えるような表情をしばらくしたあと、動きが止まった。そして、首根っこを掴まれた猫のように、だらりと腕を垂らした。
「何よ。どうしてそんなこと言うのよ」
明美は頭を抱えながら座り込んだ。
「真由子なんて死んで当然、ざまあみろ、今でもあの出来事は楽しい思い出だ、とでも言ってくれたら、楽に殺せたのに……」
震えの止まらない指先をまじまじと見る。
「どうしてよ。どうして謝ったりするのよ」
胸が圧迫されどんどん小さくなっていく、そんな感覚が明美を襲った。
――これは、私がやらなければいけないことだった。当然の義務を果たしただけ。後悔なんてしていない。
心でそう強く叫ぶと、明美はふわりと立ち上がり、水に濡れた猫のように首を何度も振った。決心したように口を一文字に閉じると、隠しカメラや配線を取り外して鞄にしまった。ビデオデッキからビデオを回収すると、奈保のときと同じように、以前に盗撮したビデオを置いた。
すべての後処理を終えると、奈保の姿を視界に入れないようにしてドアに向かった。明美はドアの付近にあるひかりの血溜まりを見ると、目を瞑って通り過ぎた。明美はナイフを投げたときのことを思い出していた。
――ドアに当てて、脅かすつもりだった。外に逃げないように。だけど、ひかりに当たってしまった。ただ脅かすつもりが……。
明美はドアのノブに手を掛けた。しかし、力を入れる前に、こっちに向かってドアが開いた。明美はよろけながら後ろに下がった。ドアの向こうに人影が見えた。やばい、そう思った瞬間、覗き込んだその人物と目が合った。
「こんにちは、妹います?」
らりと背の高い、やせた女性だった。
――姉? この人がひかりの姉なの?
明美は体中の血をこの女性に吸い取られたように血が流れる感覚がなくなっていった。
ひかりの姉は何も答えない明美を無視するように視線を部屋の奥へと移した。
「何、この血」
姉は大声を出して口に手を当てた。更に、目線を移して、
「う、うそ。ひかり、ひかりー」
甲高い声を響かせながら、靴を脱ぐのも忘れて、干物のようにぶら下げられたひかりの元に駆け寄り、言葉にならないうめき声を上げながら、ひかりを床に降ろした。
姉は、微かに残った妹のぬくもりを集めるように、手のひらを移動させた。そして、もう二度と目を開けることがないのを悟ると、声を上げて涙を流した。
その様子を眺めていた明美は、自分が真由美の死体に駆け寄ったときのことを、思い出していた。病院の霊安室で、咄嗟に掴んだ真由子の腕。あれほど冷たい感触を今まで味わったことはない。温かくて柔らかいはずの腕が、氷の棒のように冷たくて固かった。そして叫び声を上げた。真由子の凍った体を溶かすように……。
夕方になり、ひかりの部屋は暗さを増していた。近付かないと人の顔も判断できない。それでも、湿気が多いせいか汗は止まらない。
明美は足音を立てないようにして、ひかりの姉の背後に立つと、ナイフを降り上げた。そのとき、
「私が犯人を殺してやる」
と姉が呟いた。憎しみのこもった低い声だった。
明美はその言葉で感電したように、その場で固まった。それは明美が真由美の死体を前にして叫んだのと同じ言葉だった。
――真由美、私が犯人を殺してやる。
明美は、今日まで何度となく繰り返し、思い出してきたその言葉を頭の中で反復した。そのうち悪魔が現われた。
――この女はまだ私が犯人だとは気が付いていない。今殺してしまえば、私は助かる。
そう考えてみても、持ち上げたナイフを振り下ろすことはできなかった。
明美の握った凶器は、手から滑るようにして床に落ちた。張り詰めた空間を切り裂くように、ナイフの音が鳴った。
明美は携帯電話を取り出すと、落ちるように床に座り込んで番号を押した。携帯を耳に当てようとしたとき、目の前に光を遮るように立つ影があった。ひかりの姉だ。
「あっ」
と明美は声を上げ、今度は携帯電話が音を立てて落下した。そして、観念したように、うっすらと微笑んだ。
目の前に立ったひかりの姉の手の中には、さっきまで明美の手の中にあったナイフが握られていた。刃の先はしっかりと明美の胸に向けられている。
明美の落とした携帯のディスプレーには「110」の番号が悲しく光っていた。
病院の個室。
ベッドの上には、少女が一人目を閉じて、横たわっていた。太ももと首に真新い包帯が巻かれている。
彼女はうなされていたが、額から流れた汗が枕に落ちたとき、目を覚ました。場所を確認するように首を振った。
「ここは?」
天井に向かって言うと、
「病院よ」
という、優しい声が聞こえた。
「あ、お姉ちゃん」
「ひかり、大丈夫? 心配したのよ」
「私、どうしたの?」
「あなたは、明美って子に殺されかけたのよ。でも、私が救急車を呼んで、この病院で診てもらったら助かったの。もう少し遅れていたら死んでいたのよ」
姉は囁くように言った。
「そう。お姉ちゃんが助けてくれたんだ」
ひかりは姉の目をじっと見て、
「明美は?」
「彼女は警察よ。殺人罪で取調べを受けているはずよ」
「警察……」
「あの子、自分の妹の恨みを晴らそうとしたみたいね」
「……」
「お姉ちゃん。彼女の気持ち分かるかも」
「えっ?」
「部屋に入って、あんたが足から血を流して、首を吊っているのを見て、すぐ殺されたのだと分かったわ。そのとき、犯人を絶対殺してやるって思ったのよ」
「お姉ちゃん……」
「殺したい気持ちは理屈じゃないわ。でも、私は殺したりはしなかった。ひかりが喜んでくれるとは思わなかったからよ。ひかりならきっと、明美さんの心を救って欲しいと願ったはず。そう考えたら、泣いてる彼女の手をとって警察に向かっていたわ」
一つ間違えば誰だって、人をあやめるような行為に及ぶ可能性があるかもしれないということだ。逆を言えば、明美だって、もう少し違っていれば、別な道を選んでいたかもしれない。
ひかりの頭の中には、真由子にひどいことをしたこと、奈保が殺されたこと、そして、明美が警察に掴まったこと、そういった事実が渦巻いて、強大な竜巻となって、心の中を駆け巡っていた。
「お姉ちゃん、私……」
姉は、ひかりの言葉を遮って言った。
「言わなくていいわ。あんたたちが、明美さんの妹にしたことは、みんな聞いているから」
優しく、ひかりの髪をなでる。
「私、これからどうしたらいいんだろう?」
布団を握り締めながら言う。
ひかりの言葉を穏やかな表情で聞いていた姉は、ゆっくりと窓のカーテンを指差した。
「窓とカーテン」
「……窓。カーテン?」
「ああやってカーテンが閉まっていたら、景色は見えないわ」
そう言って、窓に近付いて、カーテンを全開にした。もうすでに夜になっていたため、外の景色を見ることはできなかった。
「明美さんは、カーテンが少ししか開いていなかったのよ。だから、狭い範囲でしか景色を見ることができなかった。だから間違ったことをしてしまった。いろんな景色を見るためにはさ、カーテンをいっぱいに開いておかないとね」
ひかりは窓から見えない景色を眺め、いつになく穏やかな気持ちで頷いた。
「窓さえ広げておけば、いろいろなことが見えてくるわ。あんたがするべきことだってきっとね」
そう言って、不器用なウインクをした。
「カーテンなんか開けちゃ駄目じゃない」
看護婦さんが、病室に入って来るなり、顔をしかめそう言った。
「ここは一階よ。夜にカーテンなんか開けてて、覗かれでもしていたら恥ずかしいわよ」
いつも心の窓を開けていたら、出会った人は皆、外側からしっかりと偏見を持たない目で私のことを見ていく。恥ずかしい行動はできない。
ひかりと姉は顔を見合わせて笑った。ひかりは何年ぶりかに心の奥から笑うことができていた。
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