七月三十日(火曜日)
空腹で道端に倒れ、動けなくなっていたわたしを助けてくれたのが、洋一郎だった。
川の水が道路に溢れ出るくらいの大雨の中、彼は自分の住むアパートにわたしを連れ帰り、ずぶ濡れだったわたしの全身をバスタオルで丁寧に拭いてくれた。
「早く元気になれよ」
と耳元で囁く声は今まで聞いたことのないくらいに透き通った美しい声だった。
洋一郎はそのあと、生ぬるい牛乳を差し出してくれた。それはわたしの好みに合うものだった。わたしは生まれてはじめて触れた人の温かさにいたく感動した。
わたしはたったこれだけ優しくされただけで洋一郎を好きになり、彼の側を離れたくないと思った。だから、二、三日して再び一人で生きていくのに十分な元気を取り戻してからも、私は彼の部屋から出ていこうとしなかった。
迷惑だったはずなのに、洋一郎はわたしを追い払うような真似はしないで、毎日優しい笑顔と食事を与えてくれた。一人しか住んではいけない契約のアパートなのに、文句一つ言わないでわたしをかくまってくれているのは、彼がわたしに気があるからではないのかなと、うぬぼれたりもした。
眩しさを感じて薄く目を開けると、洋一郎の声が飛んできた。
「おい、まりな」
まりなとはわたしの名前である。
「いつまで寝てるんだ。あんまり寝てばかりいると、体から根が生えちまうぞ。そうなったら、動けなくなって大好きな牛乳も飲めなくなるんだ。それでもいいのか」
そう言いながらも、彼はわたしを無理矢理起こそうとはせず、「今日も暑くなりそうだなあ」などと呟きながら、自分とわたしの朝食を作り始めた。
わたしは台所に立つ彼の後ろ姿をベッドで転がったまま見つめる。半袖のシャツから伸びる筋肉質の両腕は小麦色に日焼けして、たくましい。もうすっかり当たり前になった朝の光景だった。
彼は毎朝、わたしのために作った朝食を机の同じ場所に置く。そうすれば寝ているわたしが飛び起きて、しっぽを振ってすり寄っていくと思っているようだけど、彼の考えは間違ってはいなかった。今日もまた私は、彼の作るぬるい牛乳に飛びつき、頬っぺたを真っ白にした。
「あんまりがっつくなよ。かわいい顔がだいなしだぞ」
読んでいた新聞を折りたたむと、洋一郎は慣れた手つきでわたしの口をタオルで拭いた。照れたわたしは、ぺろりと舌を出してうつむいた。
朝食を終えると、洋一郎はタオルや石鹸をリュックに入れて玄関に向かった。私は彼を追いかけて、足につかまるようにしてじゃれついた。
「どうした、まりな。お前も、もう大人なんだからあまえてばかりいたらだめだぞ」
洋一郎はわたしの頭を撫でながら、顔を近づけた。自分の気持ちを伝えるすべを知らないわたしは、ただ彼の目をじっと見つめた。
「しかたがない。今日は温泉に行くんだ。一緒に連れていってやるよ」
わたしは喜びの声を上げ、彼の後に続いて、玄関を出た。
古い木造アパートを一歩出ると、お茶畑が目に飛び込んでくる。と同時に、朝の軽やかな風に乗って、お茶独特の青い香りが漂ってくる。
お茶は、この差王島の特産物で、ほんとかどうか知らないけど、島の面積の二十パーセント近くはお茶畑らしい。一見するとそのままでもおいしく食べられそうにも見えるのに、空腹で耐えられなかったときに畑の茶葉を口にしたら、苦くてとても食べられる代物ではなかった。
行方不明になっている母は、わたしが幼い頃、わたしにはよい食べ物を与え、自分は他人の茶畑の葉をつまんで食べていた。今思うと母はわたしのためにひどく苦労していたのだとせつない気持ちなる。
それも皆、母とわたしを置いて、どこの誰ともわからない野良猫のような女に連れられていった父のせいなのだ。今頃、父はその女の家で、私たちのことなど忘れて気楽に暮らしているのだろうと思うと、悔しくてたまらない。
父を捜し出して、文句の一つも言ってやろうとも思っていたけど、大人になるにつれて父の行動は仕方がないことだったのだと理解できるようになった。生きていくためには手段は選んではいけないのだ。わたしを大切に育ててくれた母が突然姿を消したのも、わたしが大人になり、一人で生きていけると判断したからに違いない。いつまでも親に守られていては子供は成長できなくなる。
お茶の匂いを嗅ぎながらしばらく歩くと、観光地としても有名な温泉街に着く。近代的な建物のホテルもあるが、昔ながらの民宿の温泉のほうが効能が高そうに思えるのはわたしだけはないらしく、洋一郎はいつも決まって古い温泉宿に入る。
「いいな、まりな。宿の外で待ってるんだぞ。なるべく早く戻ってくるからな」
洋一郎はわたしを外に置きざりにして、一人で温泉に浸かるつもりのようだ。
自分はハチ公ではないんだぞと心の中で文句を言いながらも、わたしは洋一郎が湯治を済ませて戻ってくるまで、何時間でも宿の前でおとなしく待っているつもりだった。これがいつも食事を与えてくれる彼に対するわたしなりのお礼であり、愛情である。
宿に入って行く人々はわたしのことを物珍しそうな目でじろじろと見ていった。普通の人なら恥ずかしく感じられる状況も、わたしは彼らとは住む世界が違うのだと思うとまるで気にならなかった。
島の人口は五千人程度。約半分の人がお茶を栽培し、残りの半分が温泉宿を営んでいる。少々大げさな表現だったかもしれないが、それくらい田舎で、何もない島なのだ。島が東京都に属しているというのが嘘のようである。
「へえ、かわいいじゃん。宿の前なんかに突っ立ってないで、俺と一緒に湯に浸かろうよ」
ねずみのような顔をした見ず知らずの男が、なれなれしくわたしの頭を撫でてきた。気持ち悪くて、全身の毛が逆立った。わたしは、初対面なのに、何年か前からの友人のような態度で話かけてくる人間を好きになれないのだ。連れ去られてしまいそうな恐怖を感じるからかもしれない。
「その子がどうかしました」
洋一郎だった。わたしは安心して全身の力が抜け、地面に腰を落とした。
男は急に笑顔を消し、眉をひそめた。
「何だ。これ君のか」
かわいいと言ったわたしのことを、まるでものでも扱うように、これ、と呼んだ。思わず声を出しそうになったが、先に口を開いたのは洋一郎だった。
「これなんて呼ばないでくれよ。彼女には、まりなっていう名前があるんだからさ」
わたしを抱き寄せる洋一郎の体は、火照っていて、甘い石鹸の香りがした。
わたしたちの愛情を目の当たりにして、男はつまらないことに首を突っ込んだなという顔をして、逃げるように去っていった。
わたしは助けてくれた感謝の気持ちを込めて、爪で引っ掻かないように注意しながら、彼の痛めている右肘を何度もさすった。遠くから聞こえる蝉の鳴き声が、いつもより弱々しく聞こえた。
アパートに戻ると、洋一郎を待ちかまえていたかのようなタイミングで大家の老人が現れた。わたしは慌てて机の影に隠れた。大家に見つかったら追い出され、二度と部屋に入ることができなくなる。
ちらりと玄関を覗く。大家は毎日縁側で将棋でも指していそうなインテリ風の老人で、足首は細くつやがあった。
「今月の家賃ですね。ちょっと待ってください」
洋一郎が家賃を払うべく、お金を差し出した瞬間、わたしは突然窓から吹き込んだ風に驚いて、思わず声を出した。
「部屋の中から声が聞こえけれど、何です」
わたしは必死に小さく丸まったが、もう遅い。ワンルームの狭い部屋ではすぐに見つかってしまう。案の定、大家は部屋に上がり込むと、机の下のわたしを見つけ指さした。
「これはどういうことなんですか。見たところ、たまたま来たお客ってわけでもなさそうですね」
洋一郎はいたずらが見つかった子供のように苦笑いをした。
「ええ、まあ。彼女は、まりあといいまして、いけないことだとわかっていたんですが、つい」
「ついじゃないですよ。アパートはあなたが一人で住む契約ですよ。この子はすぐに追い出してください。放り出されたって、もう大人なんだから、自力で生きていけますよ」
「契約違反だということはわかっていますが、部屋に置かせてください。お願いします。道で倒れていたところを助けたんです。いま追い出したら、今度こそまりなは死んでしまうかもしれません。それに、まりあはおとなしくて礼儀正しい子です。近所に迷惑をかけたりしませんから」
大家は洋一郎の熱意に押されたのか、腕を組んだままじっとわたしを見下ろし、悩むように眉を微かに動かした。そして、突然目を見開いて言った。
「あなたは水泳選手でしたよね」
「そうですが」
洋一郎はオリンピック出場確実と言われる有名な水泳選手なのだ。
「来週の日曜日。島の海岸で遠泳大会があるんですけれど、あなたが出場してください。それで、優勝賞金の五十万をわたしにくれたら、まりあちゃんが部屋に居続けることを許可しますよ」
「優勝しろってことですか」
洋一郎は当惑の表情を浮かべ、ちらりと自分の右肘に目をやった。
「オリンピック候補にもなっているあなたなら、小さな島の水泳大会で勝つことなど簡単でしょう」
「でも、まだ痛めた肘の具合が悪いんです。一週間後じゃあ、きっと十分なコンディションでは泳げませんよ」
「大丈夫、大丈夫。島の温泉は毎年冬になると多くのプロ野球選手が湯治にくるほど効果絶大なんです。あと一週間も浸かっていたら、痛みなんて消え去りますよ」
「もし、痛みが残っていたらどうするんです。僕は冬のオリンピック選考会に向けて、夏の間に肘を治そうと思って島に来たんです。だから、痛みの残ったまま無理に泳いで余計に悪くなったりしたら困るんですよ。それに、海での遠泳なんてやったことがないから、泳ぎ切る自信もありませんよ」
海は波や潮の流れがあり、プールで泳ぐのとはわけが違う。プールで泳ぎ慣れた人間がいきなり海で泳いだところで、早くは泳げないのだろう。
「わたしは別に、無理して出ろとは言ってませんよ。まりあちゃんと一緒に住みたいのなら大会で勝ちなさいと言ってるだけです。嫌なら、今すぐその子を追い出してくださいよ」
悪いのは自分なんだという気持ちからか、洋一郎は諦めたような表情を浮かべた。わたしは捨てられるかもしれないという緊張感から胃が縮み、気分が悪くなった。
あなたとずっと一緒にいたいという気持ちを込めて、洋一郎にしがみついた。震えているわたしに気が付いた彼は、机の下のわたしの目線までかがんで、頭を撫でてくれた。そして、わたしから目を離したかと思ったら、大家に向かって強い口調で言った。
「わかりました。大会には出場します。そして、必ず優勝します」
力強い彼の言葉を聞いて、わたしはさっきとは違う体の震えを感じた。涙が出そうで出ない自分がもどかしかった。
大家が帰るとすぐに洋一郎は電話に手を伸ばし、慌ててメモをめくった。
「堀か。俺だよ。洋一郎だ」
わたしは電話の内容が気になって、洋一郎に近づいた。どうやら電話の相手は洋一郎の大学の友人の堀らしかった。彼は洋一郎の所属する水泳部の親友で、洋一郎ほどではないにしろ、泳ぎはかなり上手いらしい。
彼は島に実家があり、洋一郎に温泉を紹介した人物だ。
「肘の具合はどう」
「まあまあってところかな。島に来る前に比べたらかなり良くなっているけれど、まだ完全じゃない」
「焦らずゆっくり直したらいいさ。温泉は消えてなくなったりしないから」
「それが、ゆっくりもしていられなくなってな」
「どうしたんだ。本土の彼女に早く帰ってこいとせがまれたのか」
「違うよ。俺に彼女がいないことくらい知っているだろ」
洋一郎は手短に事情を話した。
「くだらない勝負に乗ったな。いくらお前が早いとはいえ、大会に参加するのは海の泳ぎに慣れた島の連中と、全国から集まるベテランのスイマーたちだ。中にはドーバーを横断したつわものが何人もいる。プール育ちのお前には厳しい勝負になるぞ」
「だから、力をかして欲しい。島で生まれたお前なら海でどうやって泳いだらいいのかよく知っているだろう。少しばかり俺にコーチしてくれないか」
予想していたのか、堀はすぐに答えた。
「いいけど、時間があまりないからスパルタでいくぞ。いいな。それと、今日はだめだ。もう夕方になったし、彼女が遊びに来てるんだ」
「あけみちゃんか」
「あけみちゃんなんて、なれなれしく呼ぶなよ。お前はちゃんと五十嵐さんと呼べよな」
堀の彼女、五十嵐あけみは、堀の幼なじみで近所に住んでいるらしい。堀と二人で洋一郎の部屋に遊びに来たことがあったから、一度見たことがあるけど、ストッキングのかかとに小さな穴が空いていたのをよく覚えている。
顔はよく見ていないけど、わたしに比べるとかなり額が広かった。
「はいはい、五十嵐さんね。仲良くやってるみたいだね。練習は、明後日からでいいよ。しばらく泳いでないから明日はプールで体を慣らしたいんだ」
洋一郎は、明後日堀の家の近くで待ち合わせることを約束して電話を切った。
わたしは自分のために競泳選手には必要のない海での訓練をしようとしている洋一郎に感謝の気持ちを伝えられないまま、無意味に絨毯のしみを爪で削るだけだった。
「何だこれ」
洋一郎が叫び声を上げたのは、パソコンを立ち上げ、メールをチェックしたときだった。
外はすっかり暗くなり、テレビでは明日も猛暑になることを伝えていた。
絨毯の上で横になっていたわたしは、飛び起きて、パソコンを覗いた。洋一郎宛に届いたメールには、頭の先からしっぽの毛までが逆立つくらいの驚くべき内容の文章が書かれていた。
このメールを読んでいるあなた。わたしを助けてください。わたしは人を殺さずにはいられません。腐ったリンゴの匂いを嗅ぐたびに、人が死んでいく様を見てみたいという強い衝動にかられ、理性が失われそうになります。
そして今日、ついにはじめて殺人を犯しました。がまんしようとしたのですが、心の奥底から燃え上がってきた炎を消すことができませんでした。まだ、腕の震えが止まりません。食事も喉を通らず、ただただ後悔しています。
殺した相手は東京都のA区に住む、四十歳の会社員です。
文章を打ちながら、腐ったリンゴを鼻に近づけています。また、意識を失いそうです。もうこれ以上人を殺すのは嫌です。助けてください。
「くだらない冗談だな。どこのどいつだよ。迷惑なメールを送ってくるのは」
洋一郎は謎のメールを無視して、友人からのメールに目を通すと、すぐにパソコンの電源を落とした。
助けてと書いてあるのに差出人不明で、名前も名乗っていないから、わたしもいたずらだと思った。本気で助けて欲しかったら、自分の居場所を知らせるはずだし、それ以前に知らない誰かにメールを送るより、家族、友人にでも相談したらいい。それに、本当に人を殺して後悔しているのなら警察に自首するべきだ。
洋一郎の部屋に居続けることができるかできないか、という緊急事態なのに、つまらないメールに気を取られている場合ではないわたしは、メールのことなどすぐに忘れ、ソファに座った洋一郎の太股をほぐすように何回も押した。だけど、わたしの力が弱いせいで、あまり気持ちよさそうではなかった。それでも、彼は満足げな表情で、わたしの頭から背中にかけてゆっくりとなでてくれた。
夜中になって、洋一郎が寝たのを確認すると、わたしは早くよくなることを祈って、昔母がしてくれたように彼の右肘を何度も何度も舐めた。
七月三十一日(水曜日)
開けた窓から朝の日差しが斜めに入り込み、弱い風が風鈴を微かに鳴らす。そんないつもの朝を迎えたわたしたちに、届いたばかりの新聞が思わぬ出来事を運んできた。
わたしはあくびをしながら、洋一郎の用意してくれた、牛乳に口を付けた。そのとき、洋一郎がわたしにまったく関心がないかのように新聞に釘付けになっているのが気になった。わざと口の周りに牛乳を付けてみても、タオルを差し出す気配はない。
わたしのことに関心がなくなったのかもしれないと心配になり、あまえるような態度で彼に近づいた。それでも彼は、意に介さず、新聞の同じ部分だけを見るように目を動かしていた。かまって欲しくて、彼の肩越しに新聞の記事に目を通した。その瞬間、わたしの小さな心臓はジャンプした。
三十日正午頃、東京都A区に住む会社員、藤堂武史(四十)が、S区のビルで遺体で発見された。遺体の頭部には強い衝撃を受けた痕跡があり、即死だった模様。M署では現場がビルの踊り場であり、遺体にも不審な点は見られないことから、訪問販売に来た際、誤って階段から転落したとして捜査中である。
新聞の隅に載るような小さな記事だったから、気にする人はほとんどいないだろう。よくある話だと思って、すぐに記憶から消え去る話だ。しかし、わたしたちにとっては一面に載った記事よりも注目すべきものだった。
「A区、四十歳、会社員」
念仏のように呟く洋一郎。彼の頭の中には、昨日届いたいたずらメールの内容が浮かんでいるに違いなかった。
死んだ男性の情報は、メールの中に殺したと書かれていた男性と一致する。死体が発見されたのが正午頃で、メールが送られてきたのもほぼ同時刻。メールの受信記録を見たから間違いない。だとすると、テレビやラジオのニュースで事件を知ってからメールを送ったのではない。
「本当に殺人を犯してから、告白のメールを送ってきたのかもしれない。だけど、どうして俺に宛てたんだ」
メールの最初で、これを読んでいるあなた、と相手を限定していない書き方から、何人かに同じ内容のメールを送ったのかもしれないけど、送られて気持ちいいものではない。
洋一郎も同じ気持ちらしく、乱暴に新聞を閉じると大きくため息をつき、瞬きしないでテレビに目を向けた。
「いや。やっぱり適当に書いた人物が、偶然死んだだけだろう」
洋一郎は何かに気が付いた様子で、パソコンを立ち上げて、昨日来たメールを確認した。「うん。間違いない。メールに殺した男性の年齢が四十歳だということまで書かれている。メールに書かれているように、殺したいという衝動にかられて起こした殺人なら、殺した相手の年齢を知っているのはおかしい。それに、訪問販売で訪れたビルで死んでいるのにA区に住んでいたことを知っているはずがない。計画的に、殺したい相手を殺害したのなら年齢や住所を知っていてもおかしくないけれどね」
まるでわたしに聞かせるように語った洋一郎は、メールを送ってきた人物が実際に殺人を犯したとは思いたくない様子だった。ただの冗談。偶然の一致。そう信じたいのだろう。
しかし、わたしには東京都内の事件だということが気になった。わたしたちの住む差王島も東京都なのだ。その事実に何か重大な意味があるような気がして、いつまでも心が晴れなかった。
洋一郎が練習に向かったプールは、島で唯一の五十メートルプールで、屋根はないがいつも水がきれいで泳ぎやすい。
洋一郎がプールサイドに現れたとき、わたしは思わず目を見開いた。太陽の下で見る彼の体は、蛍光灯の光で見る風呂上がりの体とは比べものにならないほど迫力があった。肩や腹にゴム鞠のような筋肉が幾つもついている。わたしは、彼はやはり水泳選手なんだと改めて認識した。
夏休みということもあって、プールは小学生でにぎわっていた。時折水面に反射して光が目に飛び込んでくる。眩しさが苦手なわたしは、その度に目を閉じてうつむいた。
プールサイドで見つめるわたしのことなど忘れてしまったかのように洋一郎はひたすらに泳いだ。彼の泳ぎは芸術的と言うにふさわしく、腕は水しぶきと合いまって鳥の翼のように広がり、足は鞭のようにしなりながら水をとらえた。
そして、いつのまにか一コースを彼が独占するようになった。彼の泳ぐ両サイドのコースには人が集まり、泳ぎを見物していた。
わたしは洋一郎は不可解なメールのことなど忘れて練習に打ち込んでいるのだと思って安心した。洋一郎の身に何かよくないことが起こるのではないかと心配して不安になっているのはわたしだけだったのだ。
メールのことは忘れてしまおう。彼の泳ぎを見ながらそう考えていた。
しかし、そんなわたしの心の平穏は、その晩、洋一郎に再び届いたメールによって見事に打ち砕かれた。
「またか」
再び届いた差し出し人不明のメールを前に、洋一郎はため息混じりに言った。わたしにはすばらしく見えた彼の泳ぎも、本人は満足していなかったらしく、部屋に戻ってから笑顔をあまり見せてくれない。
「どうにかして、メールを書いてる人物を見つけられないかなあ」
洋一郎はパソコンの画面に向かって呟いた。意外にも気にしていないような穏やかな声だった。わたしはそっとメールを覗いた。
あんなにお願いしたのに助けてくれなかったのですね。どうしてですか。
わたしの頭からは腐ったリンゴの匂いが離れません。まるで脳味噌までも腐ったように思えます。あまり覚えていないでのですが、恐らく、また殺人を犯してしまいました。
今度はN区に住む、二十歳の大学生です。駅のホームでした。本当に自分でとめることができないのです。
あなたが助けてくれさえすれば、彼は死ぬことはなかったのに、かわいそうです。彼の人生は無惨にたたれたのですよ。
あなたを一生恨みます。
「俺を恨むか、メールを書いた人物は、すごく孤独で寂しい人なのかもしれないな。お前もそう思うだろ。まりな」
怒りをあらわすことなく、嫌がらせのメールを送ってきた相手を認める発言をする洋一郎。彼はわたしが思っていた以上に、優しくて強い人間なのかもしれない。
胸に飛び込んだわたしを、彼はそっと包み込むように抱きしめてくれた。わたしは彼の体からにじみ出る青い爽やかな香りを嗅ぎながら、この先、どんなことが起きようとも彼を守ってみせると心に誓った。
彼を守れるのはわたししかいない。ゆっくりと、そして確実にわたしの中に使命感が生まれていた。
八月一日(木曜日)
相変わらずの晴天で、朝から蝉がやかましく鳴いていた。わたしは珍しく目が覚めた瞬間にベッドを飛び出し、新聞を取りに玄関に向かったのに、一足早く洋一郎が取り上げた。わたしは諦めて、彼の手で運ばれていく新聞を見上げた。
メールに書いてあった事件が載っているだろうか。そう考えたのは洋一郎も同じらしく、朝御飯を作る前に落ち着かない表情で新聞を開いた。微かに指先が震えているように見えた。気にしていないように振る舞っていても、やはりメールの相手を意識しているらしい。
「あっ」と声を出して、新聞をめくる手が止まった。一点に目を置いて、顔を近づけた。
わたしはすぐにメールと同じ内容の記事が載っていたのだと理解した。そして、メールの内容は偶然の一致などではなく、メールを送りつけてきた人物は本当に殺人を行ったのだという最も最悪の結論にいたるしかなかった。
わたしは洋一郎が食事を作るために立ち上がったあと、机の上に広げたままの新聞を読んだ。
三十一日午後二時頃、山手線の新宿駅のホームで男性が線路に転落死する事故があった。込み合う時間帯ではなく、誤って足を滑らせたものとして捜査が進められている。男性はN区に住む大学生、加藤一樹(二十)で……
新聞記事など気にしないそぶりで黙って料理をしていた洋一郎だったけど、無口な姿が逆に彼の心の中の不安感を表現しているようで、寂しい気持ちになった。
洋一郎が、どこの誰だか知らない人間が殺人をしようが、強盗をしようが自分には関係ないことだと考えて、メールのことなどすぐに忘れる人だったらよかったのに、どうしようもなくお人好しの彼は、わたしを助けたようにメールを書いた人物も助けられないかと考えているに違いなかった。
洋一郎がメールの人物を見つけたいと思っているのは、文句を言うためではなく、心の闇を取り払ってあげたいと思っているからに違いない。もう少し、自分のことだけを考えて生きていけばいいのにと周囲の人々に思わせるののも彼の魅力なのだろう。
「さあ、今日から海での練習だ。一緒にがんばろうな。まりな」
精一杯の笑顔を見せる彼は、切ないほどにいじらしかった。
「堀の家まで競争だ。いくぞ。用意、スタート」
わたしがおとなしく部屋で待っていないことを知っている洋一郎は、そう言って、玄関を出るなり走り出した。
かけっこでわたしに勝てるわけないのにと思いながら、少し遅れて彼を追いかけた。
空は絵の具をぶちまけたようにどこまでも青かった。だけど、遠くの地平線の上に真っ黒な雨雲が、わたしたちの様子をうかがうように覗いていた。
「こんにちは、無口なまりなちゃん」
元気に声をかけてきたのは堀だった。すり減ったサンダルを引きずるように歩いていた。プールの水に浸かりすぎたせいか、洋一郎と同じようにすね毛の色が落ちて、金色に輝いていた。
「そういえば、俺はまりなちゃんの声を聞いたことがないなあ。声は顎の形で決まるって言うけれど、まりなちゃんは小さくて、整った顎をしてるから、さぞ綺麗な声を出すんだろうね」
顎に伸びた堀の手を、わたしはすばやい動作でかわした。彼らはわたしが顎をさわられると喜ぶと思っているらしいけど、それは間違いだ。くすぐったくて気持ち悪いだけで、嬉しくもなんともない。
「まりなは人見知りするんだ。声を聞くのはもう少し慣れるまでがまんしてくれ」
「でも、聞いてみたいな。まりなちゃんの声。洋ちゃんだけにしか聞かせないなんてもったいないじゃない」
堀の彼女、五十嵐あけみだ。夏休みになってからは、ほとんど毎日会っているらしい。わたしは彼女の風上に移動した。人より鼻が敏感なわたしは香水の香りが苦手なのだ。少し嗅いだだけで頭が痛くなる。
「まりなの話はもういいだろ。今日は泳ぎの練習に来たんだ。さっそくはじめようよ」
「そうだな。日曜日が遠泳大会だから、今日を入れて三日しかない。気合いを入れて練習しないとな」
とにかく海で泳いでみたいという洋一郎の提案で、三人は海へと歩き出した。
数百メートルも歩くと海が視界に入ってきた。島の海岸はどこも波が穏やかで海水浴に適している。夏になると、学校帰りの小学生たちが遊んでいる姿をよく見かけた。
そんな見慣れた海も、洋一郎がはじめて練習に挑戦すると思って眺めると、いつになく波が荒いように見えた。
堀は砂浜に置き去りになっていたボートを海に浮かべると、洋一郎を手招きした。
「ボートで追いかけるから、洋一郎は沖に見えるあの島まで泳いでみろ。泳ぎを確認しながらアドバイスするから」
すでに部屋から競泳用の海水パンツを履いてきていた洋一郎は、すぐに服を脱いで準備運動をした。
「さあ、行こうか」
気合いを入れると、洋一郎は砂浜から歩いて海に入り、海水が腰の辺りまで来たところで泳ぎだした。
堀は急いでボートを漕ぎはじめた。わたしは飛び乗ることができたが、堀に、「お前が乗ると重くなって、洋一郎に追いつけなくなる」と言われたあけみは砂浜に残った。もっともな意見だとわたしは思った。
洋一郎は最初探るようにゆっくりと泳いでいたけど、やはりプールとは勝手が違うらしく、何度もフォームを崩した。
「プールで泳ぐのと同じように泳いではだめだ。息をもっと高い位置でするんだ」
何度も海水を飲んでいる洋一郎に堀が叫ぶ。乗り慣れているらしく、堀はうまくボートを漕ぐスピードを調節して洋一郎に付いていった。
堀から何度もアドバイスの声がかかったが、その度に、洋一郎は器用に泳ぎを微調整していた。
「さすがオリンピック候補。泳ぎにかけては天才だな」
そう呟く堀の言葉を聞いて、なぜだかわたしも誇らしく思った。
目標地点だった島は人が住んでいない小さなものだった。島を目前にして、洋一郎の泳ぎがおかしくなった。洋一郎とボートの距離が十メートルくらい広がっていたため、よくは見えなかったけど、水しぶきだけが上がっていて進んでいないのだ。
堀はボートから落ちないようにバランスをとって立ち上がると、洋一郎の方に目を凝らした。そして、「やばい」と叫んで、服を着たまま海に飛び込んだ。
ただごとではない様子から、どうやら洋一郎が溺れたらしいことがわかった。しかし、まったく泳げないわたしは、ボートの上をうろうろと歩き回りながら洋一郎の無事を祈るだけだった。
どんなことがあっても洋一郎を守ってみせると誓ったのに、何というざまだと自分が情けなかった。
洋一郎にもしものことがあったら、わたしはもう生きていけない。
波の合間から、掘が洋一郎のところにたどり着きそうなのが見える。わたしは自分がボートから落ちないように爪を立てて、しがみついて動向を見守った。
堀は洋一郎のもとまで泳ぎ、肩を組むような格好で、洋一郎に息をさせた。洋一郎は無事だったようだ。ほっとしたら全身の力が抜けて、ボートの上で横になった。
島の海岸で二人は息を整えた。疲れ果てた様子の洋一郎は、しきりに足を押さえる。海から吹く熱風が、すぐに二人の体を乾かした。
「情けない姿を見せたな。足がつるなんて」
「仕方ないさ。海の水は常に対流しているから、冷たい水と暖かい水が入り交じっているんだ。体に与える影響の大きさは温度が一定に保たれているプールの比じゃない。慣れない間は、足がつったっておかしくないよ」
「そうか。期限は後三日。早く慣れないといけないな」
対岸では、あけみが日傘を片手に、身動き一つしないでこっちを見ていた。わたしの目に映る対岸は、向こうからこっちを見たときより、はるかに近く感じられた。そして、急に吹いた強い風が、後ろの広葉樹を騒がしく揺らしたとき、堀が口を開いた。
「お前、何か悩み事でもあるのか」
洋一郎が背筋を伸ばして、堀を見る。
「どうしてそう思うんだ」
「ただ何となく、泳ぎに気持ちが入っていないというか、いつもの切れがないというか、上手く表現できないんだけど、辛そうに見えたんだ。もしかして、肘の具合が悪くなったのか」
「考えすぎだよ。肘はもうだいぶいい。少し違和感はあるけれど、普通に泳げるよ」
「気のせいならいいけれど。もし、重大な問題を抱えているのならいつでも俺に相談しろよ。お前は俺たちの希望の星なんだ。だから、いつもベストの状態でいられるようにサポートしたいんだ」
洋一郎は真剣な目をしてしばらく黙ってから言った。
「泳ぐことによって、人に勇気を与えることってあるのかなあ」
あまりに真剣な態度に、堀は一瞬戸惑った様子で洋一郎を見たが、すぐに口を開いた。
「そりゃあ、あるさ。美しい泳ぎを見てたら、さあがんばろうって気になる。サッカー、野球、スポーツならどれもそうさ。アスリートは見る人に勇気と情熱を与えてくれるよ。それに、水泳選手なら、さっきみたいに溺れた人だって楽に助けられる。なくなっていたかもしれない命を救えるんだ」
「なくなっていたかもしれない命か」
洋一郎は今何を考えているのだろうか。届いた奇妙なメールのことを思い出し、死んだ二人を助けることができなかったと心を痛めているのかもしれない。そう思ったら自然に体が熱くなった。
「とにかく、お前は超一流のアスリートだ。自信を持って、楽しんで水泳をやりさえすればいい。きっと結果はついてくるさ」
「あんまり俺を持ち上げるなよ。すぐ調子に乗って失敗するんだから」
軽く笑った洋一郎の顎から汗が落ちた。
「さあ、戻ろう。今度は足はつらないぞ」
海の泳ぎに慣れてきた洋一郎は、帰りは順調に泳いだ。堀もアドバイスすることがなかったらしく、ほとんど何も声をかけなかった。
「海で早く泳ぐには、力任せに泳がず、水の流れに乗ることが必要なんだ。つまり、なるべく無駄な体力を押さえる泳ぎを心掛けるのが大切なんだけど、洋一郎はそれを理解してきたな。この調子なら大会でも期待ができそうだよ。よかったな、まりな」
嬉しそうにわたしに語りかけた。わたしは黙って洋一郎の泳ぎを見つめた。
海岸に着くと、待ちくたびれた様子のあけみが、額や首筋を流れる汗をタオルでしきりに拭いていた。
「ごめん。足をつっちゃってさ。しばらく休憩してから戻ってきたんだ」
洋一郎の言葉を聞いて、あけみは目を大きく開けた。
「うそ。洋ちゃんでも足つったりするんだ」
「当たり前だろ。俺は怪物じゃないんだから」
待たされたあけみがヒステリーをおこすのではないかと思っていたわたしは、和やかな雰囲気になってほっとした。
「堀、今日はありがとう。感じがつかめてきたから、忘れないうちにもう少し練習していくよ」
「がんばってな。出場してくる選手たちは海の泳ぎの達人だってことを忘れるな。油断は禁物だぞ」
「わかってるさ。正直言って、普段の水泳大会の前より緊張しているんだ。油断なんかしてないよ」
堀は笑顔で大きく頷くと、あけみと手を繋いで帰っていった。
洋一郎と手を繋いで歩くなどということは、一生できないことを知っているわたしは、うらやましくて姿が見えなくなるまで眺めていた。
洋一郎は自分の泳ぎを確かめるように、海岸から少し離れた辺りを泳ぎ続けていた。そして、日が傾きかけ、水温が下がりはじめたところで海から上がった。
「なんとかなりそうだよ。まりな。あっ、そうだ。おまえも少し水に浸かってみたらどうだ」
波打ち際へと誘導する洋一郎のあとについていったけど、波で湿った砂のところで立ち止まった。泳げないわたしは、波までいったら流されそうで怖かったのだ。
「やっぱり、水は苦手なんだね」
洋一郎は震えるわたしの体を持ち上げると、胸に抱いたままアパートまで連れていってくれた。
彼の腕に抱かれ、沈みかけの真っ赤な太陽を見ていると、なぜだか心が落ち着いた。
疲れていた洋一郎は、部屋に帰ると、食事もとらずベッドで横になった。しかし、突然、思い出したように起き上がると、パソコンを立ち上げた。
わたしはすぐに、今日もまた殺人告白のメールが来ているかどうか確認したくなったのだとわかった。
彼は目を細め、顔を画面に近づけたけど、しばらくするとため息とともに、力を抜いて背中を丸めた。
「今日は、来てないのか」
どうやら、今日は殺人の告白メールは来ていなかったらしい。
メールが来ていたら来ていたで気になるし、来ていなくても、どうしたのだろうかと気になった。もしかしたら、警察につかまったのかもしれないと考えたりもした。
洋一郎はどういう気持ちなのかわからなかったけど、もうこのまま二度とメールが来なければいいと思った。そうすれば、いずれ洋一郎の頭の中からメールを送ってくる殺人鬼のことなどきれいさっぱり消えて、水泳に集中できる。
彼のためにはそれが一番いい。メールの相手は、誰か他の人物がなんとかしてくれるだろう。警察だって、いつまでも野放しにしておくほど、間抜けではない。
その晩は、熱帯夜だったのにもかかわらず、いつになくぐっすりと眠ることができた。
八月二日(金曜日)
今日も洋一郎は練習のために海へと向かった。相変わらず穏やかな海は、わたしたちを歓迎して微笑んでいるように見えた。
「昨日泳いでいった島までいってくるから、まりなは海岸で待っていてくれ」
洋一郎は平気そうな顔で、そう言ったけど、わたしは昨日の練習で洋一郎が足をつったことを思い出して、不安になった。
「そんな心配そうな顔をするなよ。大丈夫だって。じゃあ、行ってくるからね」
走って海に入っていった洋一郎を、わたしはうつむいたまま見送った。
洋一郎は大丈夫なところをわたしに見せようと、豪快に水しぶきを上げながら、昨日よりもはるかに早いスピードで沖へと出ていった。気遣いがうれしかった。
わたしは洋一郎が視界から消えると、砂浜にあった岩の影で横になった。砂が冷えていて、直射日光の当たる砂浜とは比べものにならないほど涼しかった。
わたしは、しばらくすると睡魔に襲われ、うつらうつらしはじめ、ついには記憶を失った。
目が覚めたときには、目の前に洋一郎の顔があった。髪から水が滴り落ちている。
「こんな隙間で寝てたのか。いなくなったのかと思って心配したんだぞ」
自分のために練習している洋一郎を無視して、昼寝をしていた自分が恥ずかしくて全身が熱くなった。そして、怒られそうだと思って身を固くした。
「怒ってなんかないよ。いつ寝たっていいんだ。お前がいなくなったら寂しくなるから、そばにいて欲しいんだけだよ」
帰り道、わたしは洋一郎の少し後ろをついて歩いた。一歩歩くたびに小刻みに震える彼のふくらはぎの筋肉が、かっこよく見えた。
洋一郎がエアコンをつけたので、寒がりのわたしは、斜めに西日が差し込むベッドの脇で丸くなった。わたしの目線の先で、洋一郎が柔軟体操をしている。部屋の温度が低いと体が冷えるのではないかと思うけど、これがいつもの彼のやり方だった。
泳ぐ速さは体の柔らかさと比例すると彼は言っていたけど、ここ数日、彼が泳ぐのを見て、それが真実であることがわかった。軟らかい体をしならせて、水と一体化するように泳ぐのが彼の泳法であり、速さの秘密なのだ。
洋一郎は柔軟体操の途中で、ふと動きを止めると、パソコンに目をやった。少し考えるようなそぶりをしてから、めんどくさそうに立ち上がると、パソコンの電源を入れた。パソコンが立ち上がるまでの間、手を回したりして柔軟を続けていた。
そして、メールをチェックした瞬間、彼の動きは止まり顔色が変わった。額にしわを寄せ、大きな目をさらに広げた。
わたしは飛び上がって、パソコンを覗き込んだ。
昨日、今日とがまんしてたけど、もう限界です。目を閉じると、無数の腐ったリンゴが口に飛び込んでくる幻想が見え、吐き出すたび、人を殺したくなります。
恐らく明日また、わたしの中のもう一人の自分が人を殺します。助けてください。今度人を殺したら、自殺するつもりです。もう、殺人は犯したくありません。
明日の朝十時にまたメールを送ります。
差出人不明のいつものメールだった。洋一郎は微かに肩を震わせて言った。
「今度、人を殺したら自殺するなんて、本気なのか」
わたしは、もう一人の自分などというわざとらしい表現が気になったけれど、メールの人物は本気で自殺するような気がした。誰にも相談できず、誰かれかまわず闇雲に告白のメールを送るような小心者の人間なら自殺しかねない。そう思ったのだ。
全くの他人事として、冷静にそう考えられるわたしは、やはり洋一郎とは住む世界が違うのだと、悲しい気持ちになった。
「明日の朝十時か」
確かめるように呟くと、洋一郎はパソコンの電源を切った。
それにしても、明日の朝十時にまたメールを送るとはどういうことだろうか。たった今人を殺しました。などと殺人の実況中継でもしようというのだろうか。いずれにせよ、洋一郎が十時にメールを読んで、殺人を放ってはおけないと何かしらの行動をおこすことは間違いない。その時は、わたしも手をかすつもりだ。
洋一郎とわたしは明日のことを思ってか、黙って食事をとって、早めに床についた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに映った洋一郎の顔は、小麦色に日焼けしてたくましいはずなのに、青白い血の気を失ったような表情だった。
わたしは不安な気持ちをぬぐい去りたくて、彼のかけ布団に潜り込んだ。
八月三日(土曜日)
明日は大会だから、洋一郎には練習に集中してほしかったのに、朝からそわそわしている彼は、まるで大会のことなど忘れているようだった。何度もトイレに行ったり、新聞の同じ箇所を何度も読んだりしていた。
そして、十時になると、あらかじめ立ち上げておいたパソコンに飛びついて、メールをチェックした。ベルの音とともにメールが届いた。どうやら昨日のメールに書いてあった通りに、メールを送ってきたようだった。
彼の目が小刻みに動いて、メールの文字を追っていく。わたしも彼の椅子によじ登って、メールを読んだ。
おはようございます。昨日はよく眠れましたか。わたしは腐ったリンゴの香りを嗅ぎ続け、一睡もしていません。理性を失い、もはや、迷いはなくなりました。
今から人を殺しに行ってきます。ターゲットは決まっています。それは、差王島に住む大学生、堀雅之(二十一)です。
どうか、わたしを止めてください。殺人犯にしないでください。
読み終わると同時に洋一郎は勢いよく立ち上がった。
「堀雅之って、あいつじゃないか」
椅子にしがみついていたわたしは、椅子とともに床に転がった。起き上がったときにはすでに洋一郎は、玄関に走っていた。
堀の家に行くに違いない。親友が殺されようとしているのに洋一郎が無視できるわけがない。
堀の家までは、走れば十分程度でいける。わたしも洋一郎に続いて、部屋を飛び出した。
洋一郎の走りはいつもよりも格段に早く、かけっこで彼に一度も負けたことのないわたしだったけど、少しずつ差を広げられていった。
洋一郎は堀の家に着くと、呼び鈴も鳴らさずに玄関を開けて入った。
わたしも遅れて、玄関にたどり着いた。息を整えていると、家の陰から人の歩くような物音が聞こえた。
誰かいるのだろうか。
気になったわたしは、確認しに家の裏に回った。しかし、誰もいなかった。
一足遅かったか。
そう思い、引き返したその刹那、わたしは懐かしくもあり、新鮮でもある匂いを嗅ぎ取った。それは、微かに残った腐ったリンゴの香りだった。
道路まで出て、見回したけど、人影は見えなかった。
あきらめて家の中に駆け込むと、洋一郎が居間で屈んでいた。うな垂れるようにして、背中を丸めている。静寂の中、洋一郎の荒い息だけが、一定のリズムを刻んでいた。
どうしたのだろかと近づいて、思わず足がすくんだ。洋一郎の前に、堀が横たわっていたのだ。一昨日見た美しく日焼けした堀の体はどす黒く見えた。背中にはナイフが刺さり、血が流れ出ている。白いカーペットが赤く染まっていく。
「しっかりしろ、堀」
洋一郎は何度も呼びかけたけど、返事はない。
堀の体を起こすと、洋一郎は刺さったナイフに手をかけた。力を込めるがナイフは抜けない。諦めた洋一郎は、手についた血を服で拭った。携帯を取りだし、三回ボタンを押した。救急車を呼ぶのだろう。
「おい、そこのお前。両手を上げろ」
びくりとして振り返ると、警官が立っていた。
島ではめったに起こらない傷害事件を目の前にして、戸惑っているようだった。
まずい立場になったのは洋一郎だ。手に血をつけて被害者の前に座っていたら、どう見ても犯人だ。
「そのまま動くなよ」
警官は状況を把握するため、部屋を見渡した。
洋一郎の手の中の携帯からは、相手の声が漏れている。
「お前がやったのか」
「違います。助けに来たのに間に合わなかったんです。それより早く救急車を呼んでください。彼はまだ生きてますよ」
必死の形相で訴える洋一郎の姿を見て、警官は無線で救急車を呼んだ。
「救急車はすぐ来る。お前は俺と一緒に署まで来るんだ」
「ちょっと待ってくださいよ。俺は何もしてませんよ」
「何もしてないかどうかは、署でゆっくりと聞くからな」
手錠こそはめられなかったけど、洋一郎はまるで犯人であるかのような扱いで連れていかれた。
わたしは頭の中がパニックになり、部屋の中をうろうろと歩き回った。冷静になろうと焦れば焦るほど、何も考えられなくなっていった。
洋一郎がいなくなって、すぐに救急車が到着し、堀を担架で運んでいった。
堀は重傷を負い、洋一郎は警察につかまった。思いもよらない出来事が連続しておこって、頭がついてこない。
とにかく、洋一郎には今日中に自由の身になってもらわないと、明日の遠泳大会に参加できなくなる。不参加なら、当然わたしは部屋を追い出され、また一人ぼっちで島をさまよう生活に逆戻りだ。
一人で生きていくという苦しい思いはしたくないし、何より、洋一郎のそばにいられなくなることが辛い。
わたしは洋一郎の様子が確かめたくて、警察署へと駆け出した。
熱せられた道路を拭く風は、熱風となってわたしを襲った。サバンナを走る虎のような気分で、全力で手足を動かした。
体温が気温と同じくらいに暑くなったころ、警察署が視界に入った。
「嘘をつくな。本当はお前が犯人なんだろ」
聞こえた声を頼りに、警察署の建物の外側を探していくと、声がする場所を見つけた。
鉄格子のはめられた窓の向こう側から、洋一郎の震える声が聞こえた。取調室のようだった。
わたしは飛び上がって、鉄格子につかまると聞き耳をたてた。
「さっきから、何度も言ってますけど、俺は犯人じゃないですよ。今から人を殺すという内容のメールを受け取って、書かれていた被害者の名前が友人の堀だったから、助けるために彼の家に行っただけですよ。着いたときには、堀はすでに刺されていて、犯人はいなくなっていました」
「つまり、君は犯人は自分ではなくて、メールを送ってきた人物だと。そして、その人物は他にも殺人を犯していると言うんだね」
「そうです。今回の犯行は、偶然僕が近くに住んでいて、すぐに駆けつけたから、僕が走って来たのに気が付いてとどめを刺さずに逃げたんですよ。だから、早くその逃げた人物を捜してください」
声がしなくなったのが気になって窓の隙間から覗くと、別の警官が取調官になにやら耳打ちしていた。
「わかった。ありがとう」
警官は失礼しますと言って出ていった。
「君の部屋のパソコンを調べたが、君が言うような怪しいメールは一件もなかったそうだよ」
洋一郎は、えっ、と大きく声を出した。
「嘘でしょう。確かに俺はメールを受け取ったんです」
「喚いたってね。ないものはないんだよ。下手ないいわけなどやめて、そろそろ正直に話したらどうだ」
「俺は嘘なんかついてませんよ」
「あなたは有名な水泳選手だが、被害者の男性も同じ水泳部だったんだよね。金や女とかで、トラブルがあったんじゃないのか」
「ありませんよ。親友だったんです」
「まあ、いいさ。彼は一命は取りとめたそうだから、意識を取り戻したら犯人が誰だったのか訊いてみるよ。お前の言っていることが正しいかどうか、そのときわかるだろう。それまでは、重要参考人として警察署に泊まってもらうよ」
洋一郎の顔が強張った。
「嫌ですよ。明日は大事な遠泳大会なんです。警察署なんかでのんびりしていたら、参加できなくなるじゃないですか」
「だったら、犯人だと認めたらどうだ。そうしたら、明日一日くらいの自由はあげるよ。どうです」
「犯人でもないのに、犯人だと言うわけがないでしょう」
わたしは急に自分の体が浮かび上がったのを感じた。
「ここは立入禁止だぞ」
わたしの体を鉄格子から引きずり下ろしながら見回りの警官が言った。必死に手を伸ばしたけれど、引き離された手は、もう鉄格子には届かなかった。
警官はわたしを捕まえたまま警察署の門に向かっていく。どんどん洋一郎の声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「もう迷い込んではだめだぞ」
優しそうな顔をした警官は、わたしを門の外に置いた。
わたしは仕方なく、アパートに向かった。遠くの空には雨雲が立ちこめ、夕立でも降りそうな天気だった。湿った空気が、いろいろな種類の匂いを運んできた。
わたしはあることを閃いて立ち止まった。
それは、犯人がこの島に住んでいて、洋一郎のことを知っている人物に違いないということだった。洋一郎が捕まるというハプニングがあって冷静さを失っていたから気が付かなかったけれど、よくよく考えれば単純な話だ。
堀の家に行ったときに、わたしは腐ったリンゴの匂いを感じた。犯人の体には腐ったリンゴの臭いが染みついていて、匂いが残っていたのだ。
すれ違う人に怪しい奴だと思われる危険をおかしてまで、腐ったリンゴを持って歩いてはいないだろう。家に置いてあるリンゴの匂いが体についただけだ。だとすれば、離れた場所から移動してきたのなら、体についた匂いも消えるはず。匂いが残っていたのは、犯人の家から犯行現場まで距離がさほど離れていないからだ。
それに、洋一郎に届いたメールが消えていたのは、犯人が部屋に忍び込んで消したからだろう。犯人は洋一郎の住むアパートの部屋を知っている。最初から、洋一郎を犯人に仕立てるために仕組んだ犯行だったんだ。
十時にメールが来て、内容を確認した後に堀の家に向かったのだから、わたしたちが到着したのは十時十分から十五分くらいだったはずだ。
犯人は洋一郎が十時前にメールをチェックするかもしれないから、十時きっかりにメールを送ったはずだ。メールはパソコンだけではなく、携帯電話からでも送れるのだから、堀の家の前でメールを送ったのかもしれない。
犯人は、洋一郎の家も知っていたし、すぐに駆けつけることは予想していたはずだ。メールを送ってから数分間で殺人を犯すというゲームでもしようとしていたのだろうか。
わたしは火照った体を冷ましたくて海岸へ向かった。
犯人はどこへ逃げたのだろう。
わたしが堀の家の外で聞いた物音は、やはり犯人のものだったのだろう。わたしたちがついた直後に、犯人は逃げたのだ。
部屋をざっと見たところ争った形跡はなかった。気づかれないように忍び込んで、背後からナイフを刺した可能性が高い。治安のいい島では、昼間はあまり鍵をかけないから、進入するのはたやすい。
それに、衝動的な犯行ではなく、計画的なものだったに違いない。下調べをしておかないと、あの広い家に堀が一人で住んでいることなどわからないはずだ。普通だったら家族と住んでいると考えて、家族に見つかる危険をおかして家に忍び込んだりしないで、他の場所で殺すことを考えるはずだ。
メールに書いてあったように、犯人は腐ったリンゴの香りで頭がおかしくなって殺人をしているなんていうのは、嘘っぱちだ。本当は計画的に殺人を行う、狡猾な人間なのだ。
わたしは、海岸で打ち寄せる波を見つめながら、堀が目を覚ますまで待っていては、遠泳大会が終わってしまうから、なんとかして犯人を見つけ出す方法がないかと考えた。
一日で最も気温の上がる時間帯で、潮の香りもきつかった。鼻をむずむずさせていると、あることを思いついた。自然に体が起き上がり、駆け出していた。
思いついたことというのは、腐ったリンゴの匂いのする家を探すというものだ。いくら狭い町とはいえ、何千もの家があるけど、島でメールを使いこなすような若い年代の人物が住んでいる家となると、千もないだろう。
わたしは母親と放浪していた頃に幾度となく忍び込んだ家々を思い出し、若い人が住んでいた家を巡っていった。焦っていたわたしは、家に誰もいないと知るやいなや、土足で上がり込み、腐ったリンゴの匂いのする部屋がないか確かめた。
人がいたときは、部屋の外から窓を覗くようにして、匂いをかいだ。特にパソコンが置いてある家では、念入りに鼻をきかせた。しかし、思いのほか成果は上がらなかった。お茶や温泉の匂いはしても、腐ったリンゴの匂いなど、少しも感じられなかった。
部屋の中で飼い慣らされるような生活が続いていたせいで、夕方になる頃には、走ることができなくなって、ゆっくりとさまよい歩いた。
見つけることはできなかったかとあきらめかけて、堀の家の近くの団地に来たとき、弱い風の中に微かに含まれた異様な匂いを嗅ぎとった。
腐ったリンゴの香りだと確信したわたしは、糸をたぐるように、匂いのする方へと移動した。全神経を鼻に集中して、やっと僅かに感じられる程度の匂いだったから、嗅ぎ逃さないように細心の注意を払った。
ゆっくりと確実に足を進める。わたしの中の野生は全開になっていた。そして、しばらく歩いた末、深い草むらの向こうに、匂いのする家を発見した。
両隣を同じ形の家に挟まれた、二階建ての住宅だった。
住んでいるのは両親と子供一人か二人といったとこだろう。
わたしは家の裏の草むらから塀をよじ登り、匂いのする部屋のベランダへと飛び乗った。家の向かいの道路では、数人の主婦たちが立ち話をしている。ベランダの手摺に乗っかって、部屋の中を覗いているとき、主婦の一人と目が合ったけど、女は気にしない様子で、楽しげに話を続けた。
わたしはほっと胸をなでおろし、部屋に誰もいないことを確認すると、窓の隙間から中に入った。
ピンク色の枕と布団カバー。枕元のぬいぐるみ。整理ダンスの上の化粧品などから、女性の部屋であることがわかった。
連続殺人事件の犯人はほぼ百パーセントの確率で男性だと、聞いたことがあったわたしは、腐ったリンゴの匂いのする部屋に入っても、まだ犯人がこの部屋に住む人物だと確信が持てなかった。
部屋に人が入ってくる前に証拠を見つけたかったわたしは、机の上のパソコンに手を伸ばした。パソコンがリンゴをトレードマークにしているアップル社のマックだったのには苦笑いをした。しかし、恐らくもうメールは消されているだろうと思い、すぐに手を引っ込めた。
部屋の外から足音が聞こえないから、探す時間はまだある。何か犯行を証明するようなものを見つけなくてはいけない。
時間といえば、この家から、堀の家までは走っても十分は必要だろうから、部屋からメールを送ったわけではなさそうだ。ノートパソコンか、携帯電話だ。
しかし、部屋にはノートパソコンも携帯もなかった。
謎だったのは、部屋の隅に置かれた、箱型の機械だった。アンテナがついていて、一見するとラジオのようにも見えたけど、四角いマイクがついているのが違っていた。
機械が何に使うものなのだろうかと考えてる間も、部屋に充満した腐ったリンゴの匂いは容赦なくわたしの鼻を襲った。
匂いが気になったわたしは、匂いのもとらしき机の引き出しを数回引っ掻いて開けた。中には乾燥した真っ黒いリンゴが一つ入っていた。鼻の機能が全て壊れそうな異臭を放っていた。原型をとどめていない姿は、木炭を想像させた。
腐ったリンゴの匂いを嗅いでいるのが嘘ではなかったことを知って、急に犯人に対して恐怖を感じた。
動き回っている拍子に、隅にあったゴミ箱を倒してしまい、紙屑が散らばった。戻そうと紙切れをかき集めていると、紙に書かれていた文字が気になって手を止めた。
ある紙片に、助けてください、と書かれていた。洋一郎の届いたメールの言葉と同じだった。
わたしは、文字の書いてある紙だけを集めて、床に並べた。すると、昨日洋一郎に届いたメールと同じ文章になった。犯人は律儀にも、メールの内容を下書きしていたのだ。
もう疑う余地はない。この部屋に住んでいる女性が犯人だ。名前がわかるようなものが何かないかと探すと、机の中から銀行の通帳が出てきた。
わたしは、足音が聞こえないのを確認して、通帳を開いた。そして、その瞬間、自分の周りだけ時が止まったかのように感じた。信じることができない名前が書かれていたのだ。わたしは何回も名前を確認してから、通帳をもとあった場所に戻した。震え出した手足が止まらなかった。
犯人を追いつめる方法を思いついたわたしは、パソコンの電源を入れ、彼女のメールをチェックした。洋一郎に宛てたメールはなかったけれど、目的だった彼女のメールアドレスを見ることはできた。アドレスを覚えると、電源を切った。
一階の方から話し声が聞こえたので、慌てて窓から飛び出し、玄関の方に回った。まだ主婦たちは会話を楽しんでいた。そんな彼女たちには目もくれず、わたしは家の表札を確認した。五十嵐、と書かれていた。通帳に書かれていた名字と一致する。
間違いない。彼女が犯人だ。
家の住民の苗字は五十嵐、そして、腐ったリンゴの匂いのする部屋を自分の部屋にしているのは、五十嵐あけみ。堀の彼女だ。
洋一郎の部屋に帰ったわたしは、覚えてきたメールアドレス宛てに急いでメールを打った。洋一郎がメールを書くのを毎日のように眺めていたわたしだったけれど、自分でメールを打つのははじめてだった。
洋一郎のやっていたのを思い出し、一文字ずつ確実に打ち込んだ。
書いた内容は、「お前のやったことは知っている。今すぐチャットに来い」だった。その後に、待ち合わせするチャット専用サイトのアドレスを記入しておいた。洋一郎がよく仲間たちと使っているサイトだ。
メールを送り終えると、すぐにわたしは、サイトに繋げ、あけみが入室してくるのを待った。
電気を点けていない部屋は薄暗く、パソコンの画面の光が部屋中を照らしていた。半開きの窓からは生暖かい風が吹き込んできた。
一秒でも早く、あけみに罪を認めさせ、洋一郎を助けたい。早くこいと祈り続けた。しかし、いくら待ち続けても、あけみはチャットルームに入室してこなかった。
部屋は真っ暗になり、遠くから虫の鳴き声がうるさいくらいに聞こえてきた。たまに聞こえていた車が走る音も、まったくしなくなった。
いつもならとっくに寝ている時間になったけれど、いつあけみが現れるかわからなかったから眠い目をこじ開けて、じっとパソコンの前に座っていた。
八月四日(日曜日)
息苦しさで目を開けた。ぼやけた視界がしだいに鮮明になっていく。湿った空気が肺に充満しているようで、気持ち悪かった。
またいつもの朝かと思って起き上がったけど、ベッドではなく床に寝ていた。何かおかしいと感じ、きょろきょろと首を回す。パソコンが目に映った刹那に、とんでもないことに気がついた。
わたしは昨日、徹夜を覚悟して、あけみがチャットルームに入室してくるのを待っていたのに、いつの間にかに眠っていたのだ。
時計を見ると、もう十時になろうとしている。遠泳大会は十二時からはじまるから、あと二時間しかない。
自分の愚かさを呪ってみてももう遅い。
どうするべきか、ゆっくりと考えていられなかったわたしは、とにかくあけみに会うしかないと、腰を上げた。会ったところでわたしではどうすることもできないこともよくわかっていた。でも、何もしないではいられなかったのだ。
玄関まで来たとき、パソコンからベルの音に似た電子音が鳴るのが聞こえた。チャットルームに入室者が来たことを知らせる合図だ。わたしは急いで戻り、パソコンに飛び乗った。
メッセージが書かれている。
「何を知っているの?」
名前は記入されていないけど、あけみに違いない。
「あなたが堀くんを刺し殺そうとした犯人でしょう。ねえ、あけみさん」
「あなた誰?」
「誰でもいいでしょう。とにかく、こっちはあなたが犯人であることはわかっているんだから、いますぐ自首しなさい」
「わたしが犯人だという証拠でもあるの?」
「昨日、あなたの部屋に忍び込んで、洋一郎に宛てたメールの下書きの紙をゴミ箱の中から見つけたわ。それに、引き出しに腐ったリンゴも入っていたわ」
「メールって何のこと?」
「とぼけないで。わたしは洋一郎に届いたメールをすべて読んだわ。あなたは彼のパソコンのメールを削除しただろうけど、わたしの頭の中にはしっかり残っているのよ。腐ったリンゴの匂いを嗅いでると人を殺したくなるんでしょ」
「メールを呼んだって、あなた何者?」
あけみは動揺したのか、文字を打ち間違えて送ってきた。
「もう、じれったいわね。とにかくあなたは犯人なんだから、いますぐ自首すればいいのよ」
返事が返ってこなくなった。わたしは瞬きするのも忘れて、メッセージを待った。しばらくして、短い文章が書き込まれた。
「いつわたしの部屋に忍び込んだの?」
「昨日よ。時間は夕方の五時くらい」
「確かにその時間は一階にいたけど、表でお母さんたちの話し声が聞こえていたから、二階のわたしの部屋に忍び込もうとしている人がいたら、彼女たちに気がつかれたはずだわ」
「気がつかれたわ。でも、何も言われなかった」
また、しばらくメッセージは返ってこなかった。あけみが信じられないのも無理はない。しかし、現実に、わたしは人に見られていながら、悠々と部屋に入ることができたのだ。
「あなたは、わたしが犯人だと断言できるのなら、どうして直接言いに来ないの? 急いでいるのなら、わたしの目の前に証拠を突きつけて、お前が犯人だと言えばいいのに、遠回しにチャットなんかをつかったのはどうしてなの?」
「わたしはあなたと話ができないの。ただそれだけ。無駄話はやめてよ。遠泳大会が今日なの。犯人と間違われた洋一郎は、警察署からでられなくなっているから、早く、自由の身にしてあげないと間に合わないのよ。いますぐ警察に行って」
あけみは、わたしが誰なのかわかっていないようだけど、洋一郎を早く助けたがっていることを書いたから、気がついたかもしれない。だけど、彼女にこの現実を受け入れるだけの柔軟な思考があるのかは、うかがい知れなかった。
一分くらいして返事が来た。
「こんなことを書くと自分の頭がおかしくなったみたいだけど、あなたの正体って、まりなちゃん? いや、でも、違うわよね。他の誰かよね、そんなはずないもの」
わたしは間を置かずに打ち返した。
「その通り、わたしは、まりなです」
「本当に?」
「わたしの他に、洋一郎のメールを読むことができる者がいる?」
「確かに思い当たらないわね」
「あけみさんは、こないだの海での練習のとき、強い香水をつけていたけれど、あれは腐ったリンゴの匂いを消すためでしょう。堀くんはあけみは家に呼んでくれないって言っていたけれど、呼ばないんじゃなくて、呼べなかったのよね。腐ったリンゴの匂いのする部屋になんて」
蝉の鳴き声が止んで、静かになった。自分の心臓の音が、タイムリミットまでのカウントダウンをしている。
「まだ完全には信じられないけれど、本当にまりなちゃんのようね。まりなちゃんだったら、わたしの部屋に忍び込むのも簡単だしね。チャットの相手がまりなちゃんだと思ったら、なんだかごまかすのがばかばかしくなったわ」
「やっぱり、あけみさんが、連続殺人の犯人なのね」
「メールでは、二人殺して、堀くんで三人目になっていたけれど、実際は一人も殺してないのよ」
「どういうこと? 最初の二人は嘘? でも、新聞に二人が死んだっていうの記事が載っていたわ」
「わたしは趣味でアマチュア無線をやっていて、警察無線を傍受していたのよ。だから、誰かが死んだ事件の警官のやりとりを聞きながらメールを打ったの」
「目的は何? ただのいたずら?」
「あのメールは洋ちゃんをだますためだけに送ったの。彼以外には送ってないわ。洋ちゃんに、わたしが本当に人を殺す人物だと思わせたかったの。じゃないと、本当の目的だった、堀くんの殺害のときに冗談のメールだと思って駆けつけてくれないでしょう」
わたしの体の血流が激しくなった。堀を殺すのが本当の目的。恋人同士の二人が、実は憎みあっていたのだろうか。
「すべては、堀くんを殺し、その罪を洋一郎に着せるために仕組んだことだったっていうのね。でも、どうして堀くんを殺そうとしたの? 仲良さそうにしていたのに」
十一時を過ぎた。もう時間がない。それでも、あけみから話を聞かないわけにはいかなかった。
「堀くんには、わたしから好きだと告白して、付き合うようになったんだけど、そのときから彼には他にも付き合ってる彼女がいたの。わたしは強引に二番目の女でもいいからと言って彼女になったわ。あのときは本当にそう思ったの。彼のそばにいられるのなら、何番目の彼女だっていいってね」
長い文章はそこで途切れた。わたしが何か打とうと手を伸ばしたとき、次の文が来た。
「でも、しだいに二番目じゃ我慢できなくなっていったわ。そんなとき、彼はこともあろうに、わたしに一番目の女を紹介してきたの。当然彼は、わたしのことを同じ大学の友達だと言ったわ。悔しかった。自分が二番目だってことが、現実として突きつけられた気がした」
「それで彼を殺そうと?」
「話はまだ続きがあるの。彼の彼女はわたしにおみやげだと言って、リンゴをくれたわ。それが、机の引き出しに入っていたリンゴよ。わたしは女への憎しみを込めて、毎日眺めたわ。引き出しを開けるたび、女への憎悪が増していったの」
わたしの背筋に電気が走った。人とはなんと恐ろしい生き物なのだろうか。嫉妬の炎を燃え上がらせ、その炎で自分をも焼き、人の心を失ったのだ。
「わたしの気持ちなど知らない堀くんは、二週間前に突然別れようと言い出したの。卒業してから彼女と結婚したいから、関係はもう続けられないってね。信じられなかった。同じ大学のわたしとは毎日会ってるのに、働いてる彼女とは週に一度しか会ってないのよ。それなのに、わたしのことはゴミでも捨てるように簡単にポイよ」
二番目でもいいと言って付き合いはじめたのだから、いつか別れが来ることはわかっていたはずなのに、何て哀れなのだろう。
「自分の気持ちが伝わらないのが気に入らなくて、堀くんを殺そうとしたのね」
「その通りよ。メールを出して、洋ちゃんに罪を着せる方法は、マックのリンゴのマークを見ていてなんとなく思いついたの。これなら上手くいくってね。
でも、ナイフを持って家に忍び込み、背後から彼に近づいて思ったわ。この人は数秒後には、誰に殺されたのかも知らずに死んでいくのだと。そうしたら、膨らんだ風船から空気が抜けるように、急激に彼を殺したいという気持ちはなくなっていったの。
でも、遅かった。気がついたときには、もうナイフの半分くらいまでが彼の背中に埋まっていた。振り返った彼と目が合った瞬間、逃げ出したわ。そしてすぐに警察に電話した。警察がすぐに来たのは、私が通報したからなのよ。
こんなことを書いても、いいわけにしか聞こえないだろうけれど、わたしは腐ったリンゴの匂いを嗅いで、本当に頭がおかしくなっていたみたい」
「堀くんは、命は助かったみたいよ」
「知ってるわ。こっそり、病院を覗いてきたから。ほんとよかった。彼が生きていて」
「やっぱり、堀くんのことが好きなんだね」
「嫌いになれたらどんなに楽か。まりなちゃんは、洋ちゃんのことが好きなんでしょ?」
隠していたつもりでも、わたしの気持ちなど、あけみはとっくにお見通しだったらしい。
「うん。大好きよ」
「好きだという気持ちが伝わらなくて辛くないの?」
「とても辛くて、胸が張り裂けそう。でも、わたしは彼のそばにいられるだけで幸せ。いすれ、彼に恋人ができてわたしのことを忘れても、彼のことを思い続けるわ」
「まりなちゃんて、強い子ね。それにとっても不思議」
不思議、確かにそうなのだろう。
「わたし、今から警察に行ってくるわ。すぐに洋ちゃんを開放してもらえるようにするから、まりなちゃんは遠泳大会の会場で待ってて」
「わかったわ。待ってるから急いでね」
「迷惑かけてごめんね、小さな探偵さん」
それが、あけみから来た最後のメッセージだった。時計の針は、十一時三十分を差していた。
急いで、洋一郎。
そう心で叫びながら、海岸へと走った。
遠泳大会の会場では、受付を済ませた選手たちが、ストレッチなどの準備運動をしていた。どの顔もたくましく、チョコレート色に日焼けしている。
誰もが速そうで、二日しか海で練習できなかった洋一郎が勝てるものなのか不安になった。肘の具合はいいようだったけど、強がっているだけかもしれないし、いつ痛みが再発するかわからないのだ。
もし、洋一郎が負けたら、明日からわたしはどうやって生きていけばいいのだろう。
洋一郎が負けるなどと考えたくないのに、ナガティブな考えばかりが浮かんでくる。
早く姿を見せてわたしを安心させてと願いながら歩いていると、遠くにアパートの大家さんをみつけた。
首を振りながら歩いているところをみると、どうやら洋一郎を探しているらしかった。彼は洋一郎が警察署にいることは知らないはずだから、洋一郎はとっくに会場に来て準備していると思っているのだろう。
見つかりたくなかったわたしは、彼の視界に入らないようにそっと移動した。しかし、大家さんは、洋一郎の部屋でわたしをみつけたときのように、鋭い視線をわたしに向け、近づいてきた。
「あらっ、まりなちゃんだったっけ。ご主人様はどこにいるんだい」
何も答えないわたしに大家は大きなため息をついた。
「君に話しかけても無駄か」
そう言って、また歩いていった。
そうこうしているうちに、選手たちはスタート地点である旗の前に並びはじめていた。海岸を見渡しても洋一郎が来る気配はない。
あけみは何をしているんだ。ちゃんと警察に行ったのかとイライラしだしたとき、堤防を走る男の姿があった。
近くに来るに連れて、それが洋一郎であることがわかった。
うれしくなったわたしは、全力で走って駆け寄った。
「ごめん、ごめん。遅くなったよ。ちょっと犯人に間違われてね」
あけみが犯人だったことにショックを受けているはずなのに、わたしを心配させまいと気丈にふるまう洋一郎はかっこよかった。
洋一郎は受付終了直前で参加の登録を済ませ、あわただしく泳ぐ準備をはじめた。その様子を見ていて、わたしは洋一郎が右足をかばうような仕草をしているのが気になった。
わたしはそっと近寄って、右足に触れた。
洋一郎はわたしの言わんとすることに気づいたらしく、足を押さえて、心配な一言を口にした。
「足をくじいたんだ」
目の前に黒い幕が下ろされたようだった。洋一郎はなんてついていないのだろう。ろくに練習ができなかった上に、足までくじいている。そして、肘もいつまでもつかわからないのだ。
「警察署の前の段差で、つまづいてね。焦りすぎたよ」
わたしは、スタート地点に向かう洋一郎を見送りながら、洋一郎が負けても仕方がないと思っていた。わたしのためにがんばってくれているだけで十分にうれしかった。
競技はピストルの合図ではじまった。
遙か向こうの海の上に浮かせたポールをターンして最初に戻ってきた人が優勝だ。距離にしたら五キロはあるだろう。
洋一郎は後ろの方から、走り出して、海に飛び込んだ。わたしは大家さんがボートで追いかけようとしているのを見て、飛び乗った。彼は一瞬、驚いた顔をしたけど、すぐにわたしが同行することを許してくれた。
大家さんは髪の毛が白く染まる年とは思えないほど力強く、ボートを漕いだ。選手たちに差を付けられることなく、ついていった。
百人近くの人間が一斉に泳いでいる状況では、洋一郎を確認することができなかった。水しぶきは飛び、顔は水面下に潜っていて、全員が同じに見える。
「洋一郎君はどこだ。わからんなあ」
大家さんはつぶやきながら、ボートを漕ぎ続けた。
折り返し地点が見えてくるころには、上位グループと下位グループの差が広がりはじめ、十人程度のトップ集団がしだいに後続を引き離していった。洋一郎はその中にいた。彼独特の軟らかい泳ぎは、水の抵抗をまったく受けていないかのようになめらかだった。自分のペースを守り、フォームも安定している。しかし、こころなしか、くじいた右足首はぎこちなく見えた。
大家さんは黙って、洋一郎の泳ぎを観察し、ときどき頷いた。
折り返し地点を過ぎ、にわかにトップ集団のスピードが上がってきた。洋一郎もピッチを上げて、ついていく。集団は崩れ、二人の選手が抜け出した。
洋一郎は少し遅れたけど、すぐに巻き返し、三番手につけた。なおもスピードを上げ、二人をとらえようとしていた。
「もう少しだ。がんばれ。抜けるぞ」
大家さんが叫んだのが聞こえたのか、洋一郎は苦しそうな表情を浮かべながらもさらにピッチを上げ、瞬く間に先頭に立った。
「よくやった」
大家さんは立ち上がって喜んだ。
しかし、優勝できると喜んだのもつかの間。抜かれた二人も負けてはいられないと、スピードを上げた。体一つ分リードしていた洋一郎だったけど、それ以上に差を広げることができないまま、ゴールに近づいた。
声をかけようと大家さんが洋一郎の方にボートを向けたとき、高い波が来た。ボートの縁に手をかけて、洋一郎にばかり気を取られていたわたしはバランスを崩した。支えを失って、体が宙に浮いた。大屋さんがわたしに手を差し伸べるのが見えたけど、捕まえることはできず、わたしは海へと真っ逆さまに落ちた。
口や耳に生ぬるい海水が入ってきた。もうなにがなんだかわからない。塩辛くて吐き出すと、空気の泡が海面へと登っていった。もがいても、もがいても海に投げられれた石のように沈んでいく。見上げると、遙か遠くの海面が星空のように輝いていた。
意識を失いかけたとき、水の中で体が浮かび上がる感じがした。羽が生えて宙を舞っているようだった。薄く開いた眼に、光でできた絨毯が迫ってくる。絨毯を突き破った瞬間、海面にいた。
海水を吐き出し、呼吸を整える。そして、平常心を取り戻したわたしの目の前にいたのは、洋一郎だった。
「まりな。泳げないのに海に落ちるなんて、大変な目にあったな」
競技の途中だった洋一郎がわたしを助けてくれたのだ。ということは、当然、競技の途中でわたしのために戻ってきたのだ。案の定、洋一郎と優勝争いをしていた二人はすでに砂浜にいた。
「まりなを頼みます」
とだけ言って、わたしを大家さんのボートに乗せた洋一郎は再び、ゴールに向かって泳ぎはじめた。
わたしが海へ落ちなければ優勝していたかもしれないと思うと、やりきれなくて、猫背になってうなだれた。これでもうわたしたちは、一緒に住むことはできなくなった。
「残念だったね。優勝できそうだったのに」
大家さんは、砂浜で休む洋一郎に歩み寄った。わたしは、大家さんの後ろに隠れるようにして立っていた。
「すみません、勝てなくて」
洋一郎は下唇を噛み締めた。
「約束通り、まりなには部屋を出ていかせます」
わたしは身を固くした。
ありがとう。洋一郎。わたしは二度も助けられたのに、何もしてあげることができなくて、ごめんなさい。
わたしは、何とかして洋一郎に気持ちを伝えたくて、何度も心の中で感謝の気持ちを唱えた。
「とてもいいレースだった。こんなに気持ちがいいのは何年ぶりだろう。気分がよすぎて、君との約束のことなど忘れてしまったよ。どんな約束をしていたか知らんが、あと一ヶ月の契約だったね。また、家賃をとりに行くよ」
「ということは、今まで通り住んでもいいんですか」
「わたしはかまわんが、何か問題でもあるのかい」
洋一郎の顔が蛍光灯のように一瞬にして明るくなった。
「いえ、ありません。ありがとうございます」
帰ろうとした大家さんは振り返った。
「黙っていたけど、わたしも昔、水泳のオリンピック候補になって、海外に何度も遠征に出かけたんだよ。そのわたしが保証する。君は世界でも通用する水泳選手だ。ゆっくりとけがを治しなさい」
洋一郎は大きく頭を下げた。嫌いだった大家さんも、そのときばかりは、いい人に見えた。
八月三十一日(土曜日)
洋一郎が東京へ戻る日がきた。治療に専念し、肘の調子がすっかりよくなった彼は、一段とたくましくなっていた。
「やっぱり、行くのか。島に住んだらいいのに」
港で船を待つ洋一郎に堀が言った。退院したばかりで、体にはまだ包帯が巻かれていた。
「島での生活も楽しかったけど、オリンピックの選考会に挑戦しないといけないから、大学の近くに住んで練習に集中するよ」
「まりなちゃんが寂しがるんじゃないのか」
洋一郎の腕の中にいた私は、彼を見上げた。
「まりなのことはお前に頼むよ。時々遊びにくるから、そのときは会わせてくれよな」
洋一郎はわたしを堀に渡した。洋一郎にしか抱かれたことがなかったから、落ちつかなかった。洋一郎とは違う堀の香りも気に入らない。だけど、それはすぐに慣れるだろう。
「ほら、洋一郎が手を振っているぞ。お前もあいさつしてやれ」
動き出した船の中で、洋一郎が手を上げていた。
堀はわたしを持ち上げて、手を振った。
洋一郎のわたしと同じくらいに大きな目が、少し潤んでいるように見えた。こんな大事な瞬間にわたしは、紙くずが風で転がるのを見て、思わず手を伸ばした。
「何だよ。大事なお別れのときなのに、洋一郎よりも紙くずが気になるのか」
すかさず、堀はわたしの顔を洋一郎の方に向けた。
わたしが目の前の動くものに対して、反射的に手を出すのは仕方がない。だって、それが猫の習性なのだから。
END
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