死ぬことを禁じられた村カテゴリの記事一覧

死ぬことを禁じられた村

「おい、やめろよ。そんな危ないものしまえって」
 小早川明広は、カッターナイフを握る亮太に言った。
 午後の授業が始まる直前、五年一組の教室。何十とある机の上には図工の教科書が置かれている。
 静まり返った教室に亮太の声が響く、
「おまえが悪いんだよ。俺の教科書に落書きするからだ」
「だから、何度もごめんって言ってるだろ。冗談だよ。悪気があったわけじゃないんだ」
 明広はひたすら謝った。
 今日の亮太はどこかおかしい。落書きなんていつもしていることなのに。
 明広のナイフに定まったままの目線は、ゆらゆらとさまよっていた。
「うるせえ」
 亮太がナイフをやみくもに突くと、集まった子供たちはいっせいに後ろに下がった。
「うっとおしい。誰も近づくんじゃねえ」
 目をつむり、憎々しい形相で亮太はナイフを振り回した。が、伸ばした手が止まったかと思うと、突然震えだし、手を放れたナイフは床に落ちた。乾いた音が子供たちの胸に刺さる。
「あ、あ……」
 亮太が大きな体を小さく縮めた。
「ち、違う。俺じゃない。俺はただナイフを振り回しただけ」
 震える声の先には、右目を押さえうずくまる明広がいた。押さえた指の間から、鮮血が流れ落ち、みるみる床が赤く染まっていった。
 女の子は叫び声を上げた。
「目、目が……」
 ナイフは止めようと近づいた明広の右目に刺さり、止まった。
 明広は自分に降りかかった災難を理解できないまま叫んだ。
「右目が見えない。暗いよ。た、助けてお姉ちゃん」

 小早川雪江は、今日ほど自分の運動不足を呪ったことはなかった。自転車をこぎながら、自分の吐いた白い息で前が見えなくなりそうだった。気持ちは焦っているのに、心臓はもう限界だと音を上げている。
 午後の授業が始まってしばらくすると、担任の先生から、職員室に来るように言われた。先生の差し出す電話の相手は病院の看護婦で、すぐに来てくれと言う。
 何がおこったのか理解できなかった。電話の向こうの声は、弟の明広が右目に大けがを負って、救急車で運ばれてきたと繰り返す。朝、元気な顔でいってきますといって小学校に向かった弟が、今は病院のベッドの上。
 嘘であった欲しいと思った。人違いであって欲しいと思った。顔を見て、私の弟じゃありませんと言いたかった。
 駐輪場に自転車を投げ捨てると、ぼさぼさになった髪を揺らしながら病院に駆け込んだ。「弟は? 明広はどこなの?」
 近くの看護婦を捕まえたが、受付できいてくれと言うだけだった。
 まったく、まどろっこしい。必死の思いできたのに、何といういいかげんな対応だ。こっちだよと誘導してくれてもいいではないか。
「小早川君のお姉さんですか?」
 振り返ると、若い女性が立っていた。目の細い、黒髪の似合う女性だった。
「あなた。明広の担任の……」
 名前は忘れたが、家庭訪問で見た顔だった。口を開くたびに動く、口元のほくろが気になっていたのをよく覚えている。
 高校の制服を着た雪江を見て、明広の姉だと思い、話しかけたのだった。
「病室はこっちです」
 雪江は、彼女に弟の病室に案内され、初めてこれが現実の出来事だということを認識した。逃げることも、拒否することもできない現実なのだ。
 病室のドアをゆっくりと開け、中を覗いた。
「明広はどこ? 具合はどうなの?」
 目線を移動させていると、医者らしき人物と目が合った。目を落とすと、ベッドで眠る明広の姿があった。
「明広」
 病院中に響くような声で叫び、走り寄った。
 雪江は明広の右目に巻かれた包帯を見た瞬間、目の前がぼやけた。湧き出る涙が目の中にたまり、頬を流れた。
 普段は言うことなどきかない横着な明広が、目を閉じたまま身動き一つしない。その不自然さが、いっそう雪江を悲しくさせた。
「今は麻酔が効いて眠っています。そっとしておいてやってください」
 医者が小声で言った。
「明広の右目は治るんですか?」
 医者はしばらく考えたあと、ためらいがちに話した。
「傷は角膜、水晶体を通りぬけ、硝子体の中央にまで達していました。角膜と硝子体の間の空間を満たしている房水は流れ出て......」
「だから、治るんです?」
 細かい説明はどうでもいい。とにかく、明広の右目が治るのかどうか。それだけが聞きたかった。
「正直に言いまして、治る見込みはありません」
 パラシュートがからまって落ちていくような気持ちだった。雪江の心は地面に激突し、砕け散った。
「そ、そんな。治らないなんて」
 父を失い、母を失い、そして、右目までも失ってしまった。明広はそれでも笑顔を見せてくれるだろうか? また生意気なことを言って私を困らせてくれるだろうか?
 三年前、両親を病気で失ったときの悲しみが蘇ってくる。
「どんな方法でもいいんです。お金なら私が何とかしますから。明広の右目が見えるようになる方法を教えてください」
 高校三年生の自分が、お金なら何とかするという言葉を口にするとは思ってもみなかった。
「右目を移植するという手もありますが、ドナーを捜すのに時間がかかりますし、運良く見つかり手術が成功したとしても、元の視力を取り戻すことは難しいですよ」
「それでもいいです。できることは全てしてください」
 目の隅に映った窓の外では、真っ白な雪がタンポポの種のようにゆらゆらと舞っていた。

 雪江は明広を助手席に乗せ、車を走らせていた。
 降り出した雨は一向にやむ気配がなく、車のワイパーが悲鳴をあげていた。舗装されていない山道を走る車は、泥水を跳ね上げ、白い車体は茶色になっていた。
 高校卒業後、就職した雪江は免許を取り、中古車を買った。
 両親を病気で亡くしている彼女たちにとって、雪江の収入だけに頼る毎日の暮らしは、決して楽なものではなかった。それでも雪江は、明広の病院通いや買い物の便利さのために、無理して車を買ったのだ。しばらくローンを払い続けなくてはいけない。
 慣れない山道の運転は雪江を消耗させていた。前傾姿勢でハンドルを握り、一点を見つめたまま微動だにしない。
 明広は笑いをこらえることができなかった。
「お姉ちゃん、何だよそれ。体カチカチじゃん」
「仕方ないでしょ。こんな山道走ったことないんだから」
「雨も強くなってきたし、僕たちちゃんと帰れるのかなあ」
「ちょっと、ちょっと。そんなこと言ってないで、とっとと地図で場所を確認してちょうだい」
「はいはい」
 明広は右目の移植手術を受けた。手術は成功し、すぐに退院した。そして、四月には六年生に進学した。最近は、しだいに視力も回復してきていた。事故があってから六ヶ月になる。
 ドナーがすぐに見つかったのは幸運なことだった。明広が入院して数日後に、同じ病院で亡くなった佐藤康之という中年の男性がドナーになってくれたのだ。白血球の一部の型が異なっていたが移植は可能ということで手術を行った。
 雪江は、明広の目を失明させたクラスメートの家に怒鳴り込んでやろうかとも思ったが、少年の両親が、交通事故で重体になっていたという話を聞き、はちきれそうだった怒りの風船は、一瞬にしてしぼんだ。
 両親を失うことを恐れ、自暴自棄になり、むやみやたらに乱暴をしていただけだったのだ。雪江は、両親を亡くしたときの自分の心境を思い出し、とても怒る気になれなかった。
 明広は退院と同時に、どういうわけかカメラに興味を持ち、手放さなくなっていた。特に野鳥を撮るのが好きらしく、休みの日には必ず家の近くの森に出かけていた。今日のドライブも、明広が場所や時間の計画を立てたのだ。
「でも、残念。もっと写真撮りたかったなあ」
 手に持ったカメラをいじった。
「突然雨が降ってきちゃったものね。仕方ないわ。また今度来ようよ」
「あ、そこ右だよ」
「はーい」
 元気を取り戻した明広を見ていると、雪江もうきうきとした気分になる。入院してから毎晩、病室から漏れてくる明広のすすり泣く声を聞いていた日々が嘘のように思えてくる。 
 怖くて、不安で、眠れない夜を過ごした明広にとって頼れるのは高校生の姉だけだった。
 雪江は、神様はどうして明広ばかりに試練を与えるのかと呪ったりもした。
 順調に回復する明広だったが、雪江には一つだけ気がかりなことがあった。手術をしてからというもの明広がよく熱を出すことだった。新しい右目を拒絶するかのように、右目が真っ赤に腫れ、苦しむのだ。
 医者は心配ないと言っていたが、熱を出すたびにうなされながら呟く、『ゆきえ。どこにいるんだ?』という不気味に迫力のある言葉が、雪江には気になっていた。まるで悪魔にでも乗り移られたかのように、子供とは思えないほど、腹に響く声で言うのだ。そのとき、雪江が『私はそばにいるわよ』と答えても応答してくれない。
「こんなところに、パチンコ玉があるよ」
 明広はシートに挟まった銀色の玉を取り出した。
「お金がないのに、またパチンコなんか行ってたんだね。もう行かないって言っただろ」
「お姉ちゃんだってたまには、気晴らしをしたいのよ。でも、ごめんね。今度こそ、絶対、もう行かないわ。それで許して」
 雪江は顔色を伺うように明広を見た。
「お姉ちゃん、前」
 明広の声と同時に、雪江は急ブレーキを踏んだ。ぬかるんだ土が車をスリップさせる。「きゃー」
 横滑りした車は道沿いの草むらに突っ込んで止まった。
 雪江は体の上下左右に激しい振動が加わり、目の前の景色が歪んで見えた。
「明広、大丈夫?」
「う、うん。僕は大丈夫だよ。さっきの人は?」
 明広は窓の外に目を走らせた。
 雪江がブレーキを踏んだのは目の前に突然、人が現れたからだった。しかも、老婆のように見えた。
 地図で確認しながら走ってきたが、付近に町や村はない。車で一時間くらい走ってやっと小さな村にたどり着けるような人里離れた山奥だ。老婆が一人で歩いているわけがない。 
 雪江は鹿とか猪といった動物を見間違えただけだと思っていた。だから、明広が、
「あの人じゃない?」
 と指差したときは、心臓が止まりそうだった。
 明広が指す方を見ると、腰の曲がった老婆が、心配そうな目でこちらを見ていた。
 雪江は車をバックさせようとしたが、泥と草にタイヤが取られてタイヤが空回りした。「だめだわ。動かない」
 あきらめた雪江は、明広と車を降りた。傘を広げると、雨の音で周りの雑音が消し飛んだ。足下を流れる泥水を器用に避けて、老婆に近寄った。
「あんたたち大丈夫か?」
「ええ、体は無事ですが、車が……」雪江は車を見た。
「大雨で道がぬかるんどる。少しの段差とはいえ、引っ張り上げるのは難しいじゃろう」
「困ったわ」
 老婆と小学生と若い女性では、どうすることもできない状況だった。
「もう日も暮れる。わしのせいでこうなったんじゃ、今日はわしの村に泊まっていったらいいわい」
「村? この近くに村があるんですか?」
「ああ、あるよ。すぐそこじゃ」
 老婆は皺の多い顔に、さらに皺を寄せて笑った。
 地図に載っていないような、得体の知れない村に行くことに不安を感じた雪江は、なんとか車を引っぱり出して帰りたいと思った。
「でも、やっぱりどうにかして車を……」
 言いかけたところで、山特有の冷たい空気に打たれて震える明広を見た。
「すいませんが、村に連れて行ってもらえますか?」
 村に着いたら、明広を暖かい部屋で休ませてあげよう。
「わしらの住む村は世間様には知られておらん。迷路のように入り組んだ道を進まないと来られないようになっておるからじゃ。よくたどり着いたのう」
 何てついてないんだろう。よりによって山道を迷って、薄気味悪い村に着いてしまうなんて。こんなことになるんだったら、明広にナビをさせるんじゃなかったと雪江は後悔した。
 ちらりと明広に目をやると、震えながら独り言のように何かを呟いていた。
「わしはもう何十年も村に住んでおるけれど、都会の人が来たのは初めてじゃ。珍しい客人じゃから、村の皆も歓迎してくれるはずじゃ」
 雪江は、本当に歓迎してくれるのだろうかという不安を感じていた。村人全員に襲われ、とって食われるんではないかと考えていた。ばかげた考えが本気で出てくるほどに、精神的に追い込まれていた。車が使えなくなって、二度と帰れないかもしれないという不安が胸に渦巻いていた。
 薄暗い森の小道をしばらく歩き、老婆は立ち止まった。
「着いたぞ。ここがわしらの村。幸福村じゃ」
「幸福村?」
 雨の中に浮かび上がった村の風景は、雪江に時代劇ドラマを連想させた。使い古された井戸。家の横で回る水車。木を張り合わせて作られた小さな家。どれもがテレビの中でで見た光景だった。
「どうじゃ、驚いたじゃろ? わしらの家はみんな自分たちで作っとる。だから、古ぼったいが愛着があるんじゃ」
「自分で自分の家を作ってるんですか」
 雪江には考えたこともなかった行為だった。家を作るのは大工。当然のようにそう思ってきた。
「食べ物も全て自給自足で作っておる。骨の折れる作業じゃが、生きていると実感できるのがいいんじゃ」
「そうですか……」
 何もかもが雪江たちの住んでいる世界とは違っていた。
「村に住んどる人間は年寄りばかりじゃが、一人だけ若いおなごが住んどる家がある。あの子の家なら広いから、あんたらを泊めてくれるじゃろう。わしがお願いしてみるから着いてきなされ」
「お願いします」
 立ち並ぶ家は恐らく十数軒だろう。森を切り開いて、なんとか場所を確保した。といった感じの村だった。
「この村怖い……」
 雪江の耳元で、明広が震える声で言う。手術跡が残る右目が痛々しく見え、雪江は不安な気持ちを隠して言った。
「怖くなんかないじゃない。あのおばあさんだっていい人そうよ。何にも心配することなんてないわよ」
「……うん」
 少しは明広の緊張を解くことができたようで雪江はほっとした。
 明日は日曜日。明日中に帰らないと月曜日からの会社に間に合わない。もちろん明広だって学校がある。明日雨だったとしても、どうにかして車を引き上げて帰らなくてはいけない。村の人たちは手伝ってくれるだろうか? 老人ばかりだと言っていたから力仕事は難しいかもしれない。
 雪江がそんなことを考えていると、目的の家に着いたらしく、老婆が戸を叩いた。やはり泥棒もいないのであろう、鍵をかけている様子はない。比較的しっかりとした造りの、広い家だった。
 大きな家だわ。私たちが泊まれる部屋もありそうね。
 薄暗い空が少し明るくなったような気がした。
「はい。どちら?」
 戸の向こうから若い女性が顔をのぞかせた。
 雑に切られたショートカットの髪の毛で、つやのない唇をした女性だった。瞳の大きな目が、優しさを表していた。
 雪江は女性を見て、髪型を整えお化粧をしたら美人になるだろうと感じた。しかし、山奥で、自給自足の生活では化粧品を手に入れることは無理なのだろうと、彼女のことをかわいそうに思った。
「どうやら、このお二人さんが、迷い込んできたみたいなんじゃが、わしを避けようとして車が泥にはまってしまったんじゃ。今日一日、泊めてやってくれんか?」
「いいですよ。ゆっくりしていってください。外は寒いでしょう。さあ、中に入って」
 女性は、くったくのない笑顔で手招きした。田舎だからなのか、警戒心がなさそうだった。
 雪江たちは老婆にお礼を言うと、女性の家に入った。中は外から見ていたよりも頑丈な造りで、木一本一本が丁寧に削られ、本物の大工が作ったといってもおかしくないような内装だった。
 囲炉裏の前に三人で座ると、さっそく若い女が話した。
「私の名前は、佐藤綾っていいますけど、あなた達は?」
「私が小早川雪江でこっちが弟の明広。この子が野鳥の写真が撮りたいって言って山に来たんですけど、雨に降られてしまいまして……」
「災難でしたね。弟さんの趣味は写真なんですね。私の父も自然の風景を写真に撮るのが趣味でした。村に来てからは、自分で現像しなくてはいけなくなって、白黒写真ばかり撮っていましたけど」
 と言いながら壁の方に目をやる。雪江もつられて壁を見ると、白黒の写真が何枚も飾られていた。しかし、暗くてよく見えなかった。明広は写真の直前まで近づき、熱心に眺めた。その様子を見た綾が雪江に言った。
「弟さん、右目に傷跡が……」
「ちょっと事故でけがをしまして」
 雪江は細かく説明する必要はないだろうと判断し、簡単に答えた。
「手術なさったんですね。さぞ大変だったんでしょうね」
「ところで、綾さんの両親はどちらに?」
 こんな広い家に一人で住んでいるわけがないだろうと思って聞いた。
「両親は村にはいません。両親は二十年前、田舎の暮らしにあこがれて、村に来たそうなんですが、すでに妊娠中だった母は、私を生んだ直後、行方不明になったそうです。父は一年ほど前、母を捜しに行くと言って村を出たきり帰ってきていません」
 思ってもみない答えに、雪江は何も言えないまま綾の瞳を見つめた。綾が、自分の父親の趣味が写真でしたと過去形で言ったのは、いなくなったからなのだと今さらながら気がついた。
「両親がいなくなり、私もこの村を離れようかとも考えたこともありますが、両親が戻ってきたらと思うと決心できませんでした。今は、父が苦労して建てたこの家を、両親が戻ってくるまで守っていくつもりです」
 二十年前に母が行方不明になったってことは、母の顔も声も知らないってことだ。生まれてから二十年間、父親一人に育てられたんだ。もしかしたら私たちよりずっと苦労をしてきたのかもしれない。
 そう思うと、雪江は目頭が熱くなる思いがした。
「ご両親、戻ってきてくれるといいわね」
「ええ」
 そして、遠い目をして言う。
「特に父には感謝しています。学校に行けない私に勉強を教えてくれたのも父でしたし、同年代の友達がいない私の悩みを、いつも優しく聞いてくれたのも父でした。今も目を閉じると、まぶたの裏に父の姿が浮かびます」
 雪江は、私たちの両親はこの世にはもういないと言いそうになったが、綾を不安な気持ちにさせるだけなので口にするのはやめた。
 彼女の両親はきっと戻ってきてくれる。
 綾は縄を結いながら話していた。慣れた手つきで、わらを合わせていく。
「お姉ちゃん、その縄は何に使うの?」明広が訊いた。
「家の軒先で野菜を吊るすのに使うのよ。稲を使って作るんだけど、結構丈夫なの」
 綾は結い終わった縄を囲炉裏の周りに並べた。
「ふーん、そうなんだ」
「綾さん、綾さん」
 激しく戸を叩く音が聞こえた。声の調子から、かなり慌てているようだった。
「誰かしら。ちょっと待っててくださいね」
 雪江に言うと、綾は小走りで戸まで行った。
「どうしました?」
 戸を開けた瞬間、白髪の老人が息を切らしながら言う。
「大変じゃ。へいじいが死にそうなんじゃ」
 綾の穏和な笑顔は一瞬で凍りついた。
「それは大変だわ。すぐ行きます」
 老人は綾の言葉を聞くと、すぐに走っていった。村の一大事を連絡しているようだった。「雪江さん。少しの間出かけてきますけど、ゆっくりしていてくださいね」
「綾さん、待って」
 すでに外に駆け出した綾を呼び止めて言った。
「私も何かお手伝いしますよ。お世話になってばかりはいられませんから」
 断られても行くつもりだった雪江は、明広に待っているように言うと、綾の返事も聞かず、傘を持って飛び出した。
「さあ、いきましょう」
 雪江は元気に綾の背中を押した。
「死にそうな人がいると聞いて、何もしなわけにはいかないわ」
 雪江は綾のあとについて、泥が跳ねるのも気にしないで走った。傘を差していても意味がないほどに、雨が服に降り注いだ。
 しばらく走ると、数人の老人が立っている家があった。彼らは、綾を手招きした。
「早く、早く。こっちじゃ」
「へいじいさんの様態は?」
 傘をたたみながら、綾が言う。
「だいぶ悪いようじゃな」
「そうですか……」
 家の中には、布団に横たわる老人の姿があった。
 無精髭に埋まった顔は青ざめ、どんより曇った瞳には生気が感じられない。動く気力もない様子だった。骨の上にかろうじて皮が張り付いているような腕が、死を予感させた。
 近づいて綾が呼びかけた。
「具合はどうですか?」
 老人は最後の力をふりしぼるように、震えながら唇を動かした。
「も、もうだめじゃ。わしは長くはない。捨ててくれてかまわん」
 喉をすり減らすような声だった。目尻に涙が滲んでいる。
 綾は握っていた老人の手を離すと、頬を震わせながら言った。
「連れ出しましょう。いつもの場所へ捨てるのよ」
「捨てる?」
 雪江は聞き間違いだと思った。
 綾の声で、老人たちは病気の老人を布団に寝かせたまま、持ち上げた。
「ちょ、ちょっと。何するの?」
 雪江の声など無視して、彼らは老人を抱えたまま、御輿でも担ぐようにして動き出した。
「綾さん待って。その人病気なんでしょ。大雨の中なんかに連れ出したら、病気がひどくなって死んでしまうわ」
「村の中で死人を出すことはできないの。だから、死にそうな人間は村の外に捨てる。それが村のしきたりなのよ」
「死人を出すことができない? 村のしきたり?」
「決まりなの」
「そんなばかげた理屈なんか関係ないわ。死にそうな人は、誰であろうと助けなくちゃいけないの」
 雪江は綾の手をつかんだ。
「医者を呼びましょう。きっと助けてくれるわ」
 綾は首を横に振る。
「医者を呼ぶことはできないわ」
「それもしきたり?」
「ええ、そうよ」
 異常だ。ばかげているわ。病人が出ても治療をしないで、捨ててしまうなんて人間のやることじゃない。何ておかしな村なんだ。
 雪江は頭の中がパニックになった。
「行っちゃだめ。生きてる人を捨てるなんてことやめて」
 叫びながら、布団の端を引っ張った。
「お嬢さん」
 布団の上の老人が言う。
「いいんじゃ。村の連中は皆、近代文明の恩恵を受けることを拒んで村に来た。わしもそうじゃ。もう十分生きたんじゃよ。だから、これ以上命を延ばすことに意味はない」
「で、でも」すすり泣く雪江。
「わしらには、わしらなりの幸福の形があるんじゃ。それを分かってくれ」
 潤んだ老人の目を見て、雪江は布団をつかむ手を離した。
 村の外に捨てられ、一人寂しく死んでいくのが幸福だというの? もがいても、苦しんでも誰も助けに来てくれないのが幸せだというの?
 老人の言葉を理解できない雪江は、流れ落ちる涙をこらえることができなかった。雪江の視界の中を、担がれた老人がゆっくりと遠ざかっていった。勢いを増す雨が容赦なく降り注ぎ、川のようになって地面を流れていく。
 突っ立ったままだった雪江は、口に溜まった雨水をごくりと飲み込み、傘も差さず、綾の家に向かって歩き出した。

「お姉ちゃん、どうしたの? ずぶぬれじゃない」
「うん」
 玄関に座った雪江は、無言で服を脱ぎ始めた。
「何かあったの?」
「何かってもんじゃないわ。この村は異常よ。明日の朝、すぐ村を出るわよ」
 脱いだ自分の服をむきになって絞った。ぼたぼたと水が垂れる音が家の中で反響する。
 明広は笑顔一つ見せない雪江を心配そうに見つめた。
「お姉ちゃん……」
 明広が口を開いたとき、戸が開いた。雪江が見上げる。
「綾さん」
 綾が戻ってきた。髪や服から雨水がしたたり落ちて、あっというまに玄関に水溜まりができた。
「ほんとに、おじいさんを捨ててきたの?」
「ええ、そうよ。村を出てすぐのところにある洞穴の中に置いてきたわ」
 綾は服の雨水を絞りながら、さばさばと答える。
「村のしきたりって、絶対守らないといけないものなの?」
「そうよ。すべて村長様のお告げによって決められるの。守らない人間は村を追い出されるわ」
「お告げ?」
「村長様は年に一度、霊能力で占いのをして、村の新しい禁則事項を決めるの。それがお告げよ。お告げの内容には絶対に従わなくてはいけない。お告げを守ってきたからこそ、村の平和はあるの」
「そんな……」
 私と一歳しか違わない若い娘が、お告げによって決められたしきたりだからといって先頭に立ち、病気の人間を捨てに行くなんて、普通じゃない。
 雪江の胸には、怒りでも悲しさでもない嫌な感覚があった。
「しきたりに逆らえば不幸が訪れるわ。従っていさせすれば幸福が約束されるの」
「いくらお告げだからって、村の中で死人を出してはいけないだなんてばかげてるわよ。無茶苦茶よ。いつから続けているの?」
「死人を出してはいけないというのは、二十年前のお告げだそうよ」
「二十年前ということは、綾さんが生まれた年か」
「父の話だと、二十年前に母が行方不明になった次の日に出されたそうよ。お告げはお正月と決まっているのに、六月だったからみんな驚いたそう。だから、その年だけはお告げによって決められた禁則事項が二つあるの」
「いつもと違う、六月に出されたお告げか……」
「やめましょう。こんな話。あなたの住む世界と私が住む世界。それぞれの規則があるってことよ」
 突然強い口調になった綾に、雪江はたじろいだ。
「う、うん」
「雪江さん、服濡れてしまったでしょう。私の服を持ってくるから待ってて。ぬれた服は囲炉裏の上の竿にかけといて。明日の朝には乾いているわ」
 綾は奥の部屋に走っていった。
「お姉ちゃん。病気の人を捨てるってどういうこと?」
「何でもないのよ。明広には関係ないこと」
 竿にジーパンとシャツを干しながら答えた。
「ふーん」
 明広は病気の人と言われて、自分のことかと思ったようだった。それに気がついて雪江は言った。
「明広は病気じゃないでしょう。もう治ったんだから。それに目のことは、病気じゃなくてけがよ」
「……うん」
 明広の右目の奧にいつもとは違う、暗くて深い闇を感じた雪江は、何かよくないことが起こりそうな、いやな予感を覚えた。

 雪江と明広は、手作りのろうそくの火だけが灯された部屋で、綾の作った晩ご飯をごちそうになった。野菜のみを使った質素なものだった。
 聞こえてくるのは弱い雨音だけ。人の話し声も、車の雑音も聞こえない。静かさに慣れない雪江は、かえって落ち着かなくて、緊張しながら食事をした。
「布団は両親の寝室にあるのを使ってね。明広君にはちょっと多きいかもしれないけど」  
 食事が終わると、綾は雪江たちを寝室に案内した。
「何から何までしてもらって、ありがとう」
「いいのよ。食事のときに、雪江さんの住む町のことを聞けて楽しかったわ。私たちの村とずいぶん違うけど、楽しそうなところね」
「都会は楽しさを強要させられるところなの。遊び場を与えられ、道具を与えられ、街を歩けばどこからか音楽が流れてくる。他人の作った楽しさじゃ、心の奧から喜びを感じることはできないわ。自然の中で、自分だけの楽しさを見つける方がきっと面白いはずよ」
「お互い、ないものねだりってことかな?」
「そうかもね」
 自分の持っているものはくだらないものに思え、他人の持っているものはすばらしく思える。雪江はまったく人間の感情とは不思議だと、苦笑いをした。

 雪江は明広が布団に入るのを確認して、ろうそくの火を消した。いつもなら、窓から差し込んでくるはずの街灯やネオンの光はない。一寸先も見えない暗闇だった。
 よっぽど疲れていたのであろう。すぐに明広の寝息が聞こえてきた。
 雪江は一人きりなってしまったような孤独感を感じながら、目を閉じて思いにふけった。
 村の人たちは村長のお告げによって決められた禁則事項を忠実に守っている。私から見れば、彼らの忠誠心は異常なほどだ。いったい村長とはどんな人物なのだろう? 明日の朝すぐに帰るにしても、一度会って村に泊めてもらったお礼を言っておいた方がいいかもしれない。
 村長の人物像を想像しながら、雪江はいつの間にか眠った。
 山特有の冷たい空気が部屋を埋め尽くしていた。
 何時間寝たのだろうか。雪江は目を覚ました。
 見回しても、床についたときと同じ闇の中だった。相変わらず、明広の寝息が聞こえる。 「まだ、朝じゃなさそうね」
 そう思って再び目を閉じたとき、食事をした囲炉裏のある部屋の方から、物を引きずるような音がした。重い物をずらすときに生ずる摩擦音だ。
「こんな夜中に、何かしら?」
 引き戸の向こうから聞こえてくるわずかな音に、雪江は耳をすました。しばらくすると、何も聞こえなくなった。
 森に囲まれた村の中では、太陽の光が届きにくい。暗いだけで朝が近いのかもしれなかった。しかも、田舎の朝は早いから、綾が朝御飯の準備をしはじめたのかもしれないと考えて、雪江は布団に潜り込んだ。
 次に雪江が目を覚ましたときには、強い日差しを浴びていた。
「朝か……」
 ぼやけた目を擦りながら言った。自然に大きなあくびが出る。
「明広、おはよう。そろそろ朝よ」
 そう言って、明広に目をやった雪江は、一気に目が覚めた。明広の顔は真っ赤で、額からは大粒の汗が噴き出していたのだ。
「大変。また熱が出たんだわ」
 額を触ると確かに熱い。しかも、かなりの高熱だった。
 雪江は濡れタオルを借りようと、綾を呼びに走った。
 綾の寝室を空けて言った。
「綾さん、おはよう。あれっ、いない」
 敷かれたままの布団があった。が、綾の姿はなかった。
 台所と囲炉裏のある部屋に走った。
「綾さーん。どこにいるんです?」
 返事はない。雪江は部屋に入った途端、声を上げた。
「綾さん、大丈夫?」
 綾が囲炉裏の前の床に倒れていたのだ。
 仰向けで、顔は真っ直ぐ天井を見上げている。外出しようとしていたのか、シャツを着て、スカートをはいている。意識はないようだった。
 駆け寄って触れた綾の体の冷たさに、雪江はぞっとして手を離した。
「う、うそ」
 頭に浮かんだ悪い考えを信じたくなかった。
 そっと心臓に手を当ててみる。鼓動が感じられない。
「やっぱり、死んでる」
 静まりかえった部屋の中で、自分の心臓の鼓動がうるさいくらいに聞こえていた。
「どうして、どうしてなの?」
 よく見ると、首に縄で絞められたような跡がある。近くに縄も落ちている。昨日、綾が結っていた縄だった。
「殺されたんだわ」
 体の冷たさからして、かなり時間がたっていそうだった。
 横たわる死体を前にして、雪江はどうしていいか分からず、寝間着のままで外に飛び出した。
 雨は上がっていたが、地面はぬかるんだままだった。
 雪江は近くの家のドアを叩いた。
「すません。すません」
 すぐにおじいさんが顔を出した。
「どうしたんじゃ?」
「あ、あの。死んでるんです。綾さんが」
「何じゃって?」
 雪江の震える声を聞き取ることができなかった老人が、雪江の方に耳を向けた。
「綾さんが死んでるんです」
「綾さんが? まさか。見間違えじゃないのか」
「あー、もう。とにかく来てください」
 じれったく思った雪江は、老人の腕を引っ張って綾の家に戻った。
 雪江は老人を綾の死体の前に立たせた。
「こりゃまあ、大変なことになったぞい。村の中で死人が出るなんて一大事じゃ」
 綾の脈がないことを確認した老人が言った。
「おまえさんは、ここにおれ。わしがみんなを連れてくる」
「はい」
 雪江は、ただ老人の言うことに従うしかなかった。
「そうだ。明広に濡れタオルを持っていかなきゃ」
 少し冷静さを取り戻した雪江は、竿から干してあった服を取り、台所から水を入れた桶とタオルをつかんで寝室に向かった。
「明広しっかり。熱はすぐ下がるわよ」
 雪江は、絞ったタオルを明広の額に乗せ、励ますように言った。
「ゆ、ゆきえ。どこにいるんだ?」
 明広はしわがれた声で何度も繰り返す。
「私なら、隣にいるわよ。がんばって」
 雪江の声が聞こえないのか、明広は同じ言葉を繰り返すだけだった。
 玄関が騒がしくなってきた。
「人が集まってきたみたいね」
 雪江は乾いたジーパンとシャツに着替え、明広に「すぐ戻るね」とだけ言って出ていった。

「どうしたらいいんじゃ」
「死人が出たんじゃ、何かとてつもない不幸に見舞われるに決まっておろう」
 集まった老人たちは、それぞれ好き勝手なことを言っていた。
 彼らは家の奥から現われた雪江を見つけた。
「綾さんが死んでいるとは、どういうことじゃ。説明してもらおうか」
「朝起きて、台所にいこうとしたら、倒れている綾さんを発見したんです。それ以上のことは分かりません」
「そのときには、すでに彼女は死んでいたんじゃな」
「そうです。首筋に縄で絞められた跡がありますし、もがいたときについた爪痕もあります。きっと綾さんは絞殺されたんです。警察を呼んで犯人を捜してもらいましょう」
「警察を呼ぶことはできん」
「また、しきたりですか?」
「そうじゃ、わしらの村の中で起こったことは、わしらで解決せねばならん」
 雪江たちを村に案内してくれた老婆が言った。
「自分たちで犯人を見つけるっていうんですか?」
「まあ、とにかく村長様に事情を説明して、意見を聞くしかないじゃろ」
「そうじゃな。村長様のところに行くしかあるまい。おまえさんもついてきてくだされ」
「は、はい」
 雪江は明広のことが気になったが、断れる状況ではないと判断して、彼らの後に続いて家を出た。
「朝になったらすぐ帰るつもりだったのに、こんなことになるなんて。犯人の奴、見つけたらただじゃおかないから」と雪江は憤慨した。
「村長様の家は、村の奧にある坂道を上がったところにあるんじゃ」
「近いんですか?」
「すぐじゃよ」
 家に通じる坂道は、獣道のように曲がりくねっていて、道のりが長く感じられた。雪江はぬかるんだ道に足を取られて、何度も転びそうになりなった。
「こんな山奥なんて、もう二度と来ないんだから」
 老人たちは慣れた動作で登っていった。長老の家に着いたとき、雪江は疲労困憊していた。老人たちは、たいして息を切らしてもいない。
「これじゃあ、どっちが老人か分からないわね」
 もしかしたら、村の老人たちは私が思っているよりも、はるかに体力があるのかもしれない。夜、目が覚めたときに聞こえた何かを引きずるような音は、犯人が絞殺した綾を移動させる音だったに違いない。
 ここの老人たちには、綾を運ぶ力も体力もありそうだ。きっと、綾は別な場所で殺されて、囲炉裏の前まで運ばれたのよ。あっ、でも、外で殺されたのなら、綾の服は濡れているはずだし、足に泥が付いているはず。触った感触では濡れていなかったし、泥もついていなかった。ということは、家の中で殺されたのか……。
「あんたも、ぼけっとしとらんと早く入ってきんしゃい」
 老婆の言葉で考えが中断させられた。
「は、はい。すぐ行きます」
 雪江は玄関で靴を脱ぎ捨てると、老人たちのあとを追いかけた。
「広い家。森の中に立てるのには、苦労したんだろうな」
 立派な造りの家に、雪江は自然とかしこまった態度で歩いた。
 老人たちは、廊下の突きあたりの部屋に入っていった。雪江も続いた。
 部屋の上座の大きな座布団の上に、小さな老婆が座っていた。顔にはイスラムの女性がするような黒いベールを被ってる。隙間にのぞく肌には、溝の深い皺が刻まれていた。服は濃い茶色の着物だった。
 村人たちは、長老に綾が殺されたことを説明した。
「綾が死んだか。寂しくなるのう。早く犯人を見つけてやらねばならぬな」
「禁則事項を破ってしまいましたが、村は大丈夫でしょうか?」
「それは分からぬ。しかし、村に不幸がおとづれることは間違いないじゃろう。覚悟することじゃ」
 集まった老人たちがざわめいた。
「ところで、その女性は誰じゃ?」
 村長は雪江を指差した。
 雪江がとまどっていると、雪江を案内してくれた女性が事情を説明した。
「なるほど、昨日、綾の家に泊まっていたということじゃな」
「はい」
「綾が犯人に襲われていたのに、気がつかなかったのか?」
「眠っていましたから……」
「それはおかしいのう。首を絞められたとなれば、綾は抵抗したはずじゃし、助けを呼んだはずじゃ。その声にも、物音にも気がつかないで、のんきに寝ていたというのか?」
「ええ、まあ。そういうことになります」
 言われてみればそうだ。どうして私は気づかず寝ていたのだろう?
 雪江は、夜中に聞いた物音のことを話そうかと思ったが、どうして起きて見に行かなかったのかと責められそうで、口にするのをやめた。
「怪しいやつじゃて、本当はあんたが綾を絞め殺したんじゃないのか?」
「えっ? 私が?」
「家に泊めてもらったあんたなら可能じゃろ」
「そうだ。この女は、昨日へいじいを村の外に連れ出すのに反対して、綾さんと口論しとったわ」と誰かが言った。
「口論だなんて。そんなことで人を殺すわけないでしょう」
 まずい展開になってきた。このままでは、私が犯人にされてしまう。
「いいや、分からんわ。都会の人間は自分勝手じゃき、人の命も簡単に奪いそうじゃ」
 どこらか、そう言う声が聞こえた。
 いつのまにかに、部屋にいる全ての人間が、雪江を犯人だと決めつけていた。
「待ってください」
 大声で雪江が言った。
「私は犯人じゃありません。証拠はありませんが、とにかく違うんです。それに、都会の人間はあなた達が思っているほど残忍じゃありませんよ」
「そこまで言うんだったら、犯人を捕まえて、わしの目の前に連れてきなさい」
「えっ?」
「それができないのであれば、お前を犯人として罰する。牢屋に入れられ、一生、村を出ることは許されんぞ」
「そ、そんな……」
 犯人を見つけられなかったら、村から出られないなんて最悪の状況になった。子供の頃、行方不明になった愛犬すら見つけることができなかった私が、殺人を犯した犯人を見つけて捕まえなくちゃいけないだなんて、できっこない。
「制限時間は一時間じゃ。今、九時じゃから十時までに犯人を連れてくるんじゃ」
「一時間ですって? 短すぎるわよ」
 下手をしたら、村とこの家の往復だけでも三十分ぐらいの時間が必要になる。残りの三十分で犯人を見つけるなんて、まだ分からないことだらけなのに不可能だわ。
「やかましい。お前が犯人に決まっているのに、長い時間のさばらせておくわけにはいかんからな。みんなは十時にもう一度この場所に集まってくれ。そのとき、この小娘が犯人を連れてこなかったら、牢屋にぶち込むがいい」
「……」
「ひでじいさん」
「はい」
 雪江が呼びに行った老人が答えた。
「この小娘が村から逃げないように、そばについて見張っておいてくれ」
 雪江は突然立ち上がると、大声で言った。
「逃げないわよ」
 言われ放題だった雪江の怒りが爆発した。
「いいわよ。やってやるわよ。一時間後、お前の目の前に、犯人を突きだしてやるから覚悟しな」
 雪江の細い人差し指は、まっすぐ長老に向けられていた。
「ふふふ。面白い娘だわ」
 長老はベールの奥の口を、手で押さえながら笑った。
 雪江は帰りの坂を滑るように下りた。尻餅をつくたび、乾いたばかりのジーパンに泥がついた。それでも、雪江は一刻も早く家に戻ろうと、ひるむことなく先を急いだ。
「お嬢さん、なかなか威勢がいいのう。都会の女の子はみんなそうなのか?」
 ひでじいが言った。しっかりと雪江のあとについて来ていた。
「いえ、きっと私だけですよ」
「わしも協力できることはするわい。がんばりなされ」
「おじいさんは、私を疑っていないんですか?」
「さっき、わしを呼びに来たあんたの目は、とても人を殺すような目じゃなかったわ。本気で綾を心配している。そんな目じゃったよ」
「一人でも信じてくれる人がいて嬉しいです」
「だが、正直あんたを疑った瞬間もあった。夜中、共同の便所に行こうと、外に出たとき、見知らぬ女性の姿を見かけたんじゃ。あれがあんたじゃったのかもしれんと思ったら、夜中に一人で何をしていたんだろうか、もしかしたら綾さんを殺して運んでいるとこだったんじゃないかと怪しく思えたが、よく考えれば、綾さんは部屋の中で殺されていたのだから、あんたが犯人なら外を歩き回る必要はないわな」
「えっ、ちょっと待ってください。夜中に外を歩く女性がいたんですか?」
「そうじゃ」
「その女性を見たのは何時ですか?」
「わしらは時計をもっとらんから、大体の時間で行動しとるんじゃが、三時くらいだったと思うわ」
「場所はどこです?」
「この坂を下りた辺りじゃ、わしの姿に気がついたのか、慌てて坂を駆け上がっていったわ。雨が降っていたし、わしは目が悪くてのう。女性の容姿も年齢も分からんかったが、老人とは思えん動きじゃったぞ」
「坂の先には、村長の家があるだけよね」
 坂の先を見上げる。
「それが綾さんだとしたら、雨の中を走って、服がぬたはずだし、足に泥が付いたはずだわ。死体にそんな形跡はなかったし、玄関の靴もぬれていなかった。綾さんは外に出ようとしていたかもしれないけど、出てはいないのよ。別の誰かだわ」
「村には綾さん以外に、坂を走って上れるような足腰のしっかりした人間はおらんから、綾さんじゃないとすると、わしの見間違かもしれんのう」
「誰か、外部の人間が村に来たのかもしれませんよ」
「昨日に限ってはそれはないんじゃ、あなた達が来たすぐあとに、村に通じる道が大雨の影響で土砂崩れを起こしてな、通れなくなったんじゃ。だから誰も村に入ることはできんかったはずじゃ」
「村は閉ざされた空間になっていたのか。あっ、でも、私たちが来る前に、村に進入して隠れていたのかもしれないわ」
 ひでじいは首を振る。
「日没までは、交代で入り口に見張りを立てておるが、誰も見かけなかったそじゃよ。それに、いままで外部の人間が手引きなしで村にたどり着いたことはないんじゃ。あんたたちを除いてはな」
「侵入者はなしか」雪江は溜め息まじりに言った。
「そうなると犯人は村の人間ということになるわね」
 じいさんの見た女性が怪しいけど、村には老人しかいないというのなら見間違いなのだろう。野生の鹿か何かだったのかもしれない。とにかく、犯人は村人の誰か。それは間違いない。
 雪江は口を真一文字にして、坂を下った。

 綾の家に戻り、玄関の戸を開けると、突然元気な声が聞こえた。
「お姉ちゃん、お帰り」
「明広。熱は大丈夫なの?」
「うん、もう下がったよ」
「もう少し寝ていた方がいいんじゃない?」
「ううん。ぜんぜん平気。それより、綾が、いや、綾姉ちゃんが殺されたんでしょ。早く犯人を捜さなきゃ」
「明広。どうしてそれを?」
「お姉ちゃんが、囲炉裏のそばで、村のみんなと話しているのを寝室で聞いてたんだ」
 雪江はごくりと唾を飲み込んだ。
 熱で苦しんでいると思っていた明広はちゃんと話を聞いていたのだ。明広がショックを受けると思って、気がつかなうちに事件を解決しようと思っていた雪江は、この先どうしたらよいか悩んだ。できることなら、明広を巻き込みたくなかった。犯人を見つけられなくて、村に残ることになっても、明広だけは帰してもらえるように頼むつもりだったのだ。
「今、村長さんのところに行ってきたら、一時間以内に犯人を見つけて、連れてこいっていわれたの。そうしないと村から出さないって。お姉ちゃんがんばって犯人を見つけるから、明広はそれまで休んでいて」
「そんなの嫌だよ。僕だって手伝うよ。もう手がかりだって見つけたんだよ」
「えっ?」
 どっちかというと消極的な性格の明広の、珍しく積極的な態度に、雪江は戸惑いを感じていた。
「手がかりって何?」
「綾姉ちゃんの寝室で見つけたんだ」
 明広が雪江に渡したのは日記帳だった。ぱらぱらとめくると、毎日二、三行程度の日記が書かれていた。
「ここ読んでみてよ」
 あるページを開いて指差した。

『今日も無事に会えた。誰にも見られていないはず。一ヶ月は長いよ。でも、こんなことを、いつまでも続けていくわけにはいかない』

「何よ、これ。綾さんは秘密で誰かに会っていたってこと?」
「日記を読むと、一ヶ月に一回、同じ日に『無事会えた』という記述があるんだ。きっと、綾さんは一ヶ月に一回だけ、村の人たちに内緒で誰かに会っていたんだよ。そして、昨日は、会う日だったんだ。しかし、残念なことに、綾さんはその人物に殺されてしまった」
「なるほど、それが明広の推理ってわけね。でも、間違ってるわ」
「どこが?」
「昨日は土砂崩れで、村に通じる道が通れなくなっていたのよ。だから、綾さんに会いに来た人物が、たとえ村に来る道を知っていたとしても、村に入ることはできなかったはずよ」
「道が通れなかったか。でも、村に住んでいる人物なら問題ないわけでしょ」
「そうだけど、村人なら夜中こっそり、誰にも見られないようにして綾さんに会う必要がないじゃない。昼間に堂々と会っていても誰も不思議に思わないわよ」
「そこだよ。そこがこの殺人の犯人を見つける鍵になるはずだ」
 明広の見たこともないような厳しい表情に、雪江は口を半開きにしたまま無言で首を縦に振った。
 今日の明広はどこかおかしい。
「もしかしたら、夜中にひでじいさんが見たあやしい女性。彼女が犯人なんじゃない?」
「女性がいたの?」
 ひでじいは明広に夜見た女性の話しをした。
「でも、きっと見間違いじゃよ。村の誰にも当てはまらん」
「ねえ、おじいさん。一つ聞きたいことがあるんだけどいい?」
 明広はひでじいに問いかけた。
「何だい?」
「綾さんのお母さんが村から消えた理由について、何か知ってることはない?」
「ああ、雪江さんか」
「綾さんのお母さんは雪江っていうんですか?」
 雪江は自分と同じ名前かと思って訊いた。
「空から降る雪に、入り江の江で雪江じゃ」
「やっぱり、私と同じだ」
 急に親近感が芽生えた雪江は高い声で言った。
「お姉ちゃん。そんなこと、どうでもいいでしょ」
「はい。ごめん」雪江はつまらなそうに口を尖らせた。
「雪江さんを最後に見た人は村長様じゃった。村長様の話じゃと、あの日、雪江さんは、産まれた子供の名前を決めて欲しいと訪ねてきたそうじゃ」
「どうして村長に?」明広が訊く。
「村のしきたりで、村で生まれた子の名前は村長様が決めることになっておるんじゃ。村は子供に『綾』とつけたそうじゃが、そのあとに雪江さんは子供の未来を占って欲しいと言ったそうじゃ」
「それで占ったんですか?」
「ああ、占い結果は、子供は幸せになると出たそうじゃが、幸せを得るにはある条件が必要だったんじゃ」
「条件?」
「将来、子供は幸せに暮らす。ただし、母親が子を置いて村を出ていかないと不幸な一生を送ることになる。これが占い結果じゃ」
「そんな。親子が離れ離れにならないといけないなんてひどい」
「占いを聞いて、衝撃を受けた雪江さんは、誰にも言わず。一人で村を出ていったそうじゃ。子供は村長様の家に続く坂の下に放置されておった。それが綾さんじゃ。自分の幸せのために母がいなくなったと知っては、悲しむと思って、綾さんにはこのことを秘密にしておったんじゃよ」
「綾さんは、二度と戻ることのない母を待ち続けていたのか」
 雪江は下唇をぐっと咬んだ。
「雪江さんは、誰にも言わず。一人で村を出ていった……」
 独り言のように呟く明広。
「綾さんのお父さんは、村を出ることに反対しなかったの?」
「康之さん、雪江さんの旦那さんじゃが、にも言わなかったそうじゃ」
「夫にも言わずに村を出ていったのね」
「康之さんは外に放置された子供を抱いて、あとを追いかけようとしたらしいが、雪江さんの行動は綾さんの幸せを祈ってのこと。連れ戻しては、彼女の心を裏切ることになるとあきらめたそうじゃ」
「子供を連れて雪江さんをおいかけるってことは考えなかったの?」
「村のしきたりで、産まれた子供は、村の中で育てなければいけないことになっておる。彼はそれに従ったんじゃよ」
「また、しきたりか」
「ねえ、村から出ていく雪江さんを目撃した人はいなかったの?」
 明広が大きな目を見開いて訊いた。
「不思議なことに、いないんじゃ。村の入り口の見張りも、誰も通らなかったと言っておったわ」
「誰にも見られずに村を出たのか」
 ふと腕時計を見て、雪江は、声を上げた。
「大変。十時まであと二十分しかないわ。すぐに犯人を見つけないと村から出れなくなっちゃう」
 綾さんは、夜中にこっそり会っていた人物に殺された。そんな推理では、許してもらえるはずがない。会っていた人物を見つけないといけない。
「じゃあ、早くその村長とかいう人の家に行こうよ」
 無邪気に明広が言った。
「だから、犯人を連れていかないとだめなのよ」
「どうせ、村の人たちはみんな集まるんでしょ?」
「そうだけど」
「好都合じゃない。村人全員が来るイコール、犯人も来るってことだよ。その場で、『おまえが犯人だ』ってやったらかっこいいじゃん」
「あー、やっぱり、明広は子供だわ。今犯人が分からないのに、村長の家でどうやって犯人を指摘するのよ」
「僕に任せて、悪いようにはしないから」
 小学六年生の弟に、任せろと言われるなんて、何てなさけない姉だろうか。それにしても明広のやつ、まかせろとはどういうことだろう? 
 とにかく、村長の家に行くまでに犯人の目星だけでもつけないといけない。
 今までに分かっていることの中で重要なことは、
 @綾さんは夜中に誰かと待ち合わせをしていて、その人物に殺された可能性が高い。 
 Aひでじいさんが夜中の三時頃に、女性の姿を見た。その女性は老人ではなかった。
 この事実から推測できるのは、ひでじいさんが見た女性が、綾さんの待ち合わせていた人物で、綾さんを殺した犯人であるということ。
 でも、村に入った人物はいないし、村にはひでじいさんが見たような若い女性は住んでいない。
「あー、もう。わけ分かんない」と頭に手を当てる。
「さあ、早く」
 先に走りだした明広が、二人を呼ぶ。
「待ってよ」
 雪江は追いかけた。
「これが村長の家に続く坂道か。ずいぶん急だね。これじゃあ、老人が走って上れるわけないよね」
 坂を上りながら、明広が言った。
「こんな坂を一日二回も上ることになるなんて、最悪」
「お姉ちゃん、運動不足だからちょうどいいんじゃない?」
「あんたもでしょ」
「はいはい、そうですよ」明広は足を早めた。
「おじいさん。お告げのことなんだけど」
 明広が神妙な顔で言った。
「何じゃ?」
「村の中で死人を出してはいけないっていうお告げは、綾さんのお母さんが村を出た次の日に出されたって聞いたんだけど、詳しく教えて」
「お告げは『村の中で人が死んではならないし、死体があってはならない』が正確な内容じゃ。だから、わしらはそれまでに村の墓場で土葬していた死体を掘り返し、村長の家の裏庭で焼いたんじゃ。腐った死体を運ぶのはつらい作業じゃったよ。しかも、長老は集めた死体を一晩置いて、次の日に燃やせと言うから、一晩中匂いが下の村まで漂ってきて気持ち悪かったわい」
 ひでじいは身震いした。
「土葬してあった死体を焼いたのか」
 明広は相変わらず渋い表情で、呟いた。
「お告げが出たのは突然じゃった。集まれと言われて村長様の家に行くと、村長様は『お告げが出た』と言って、内容を説明されたんじゃ」
「六月にお告げが出るなんてことは、はじめてじゃったから、わしらは戸惑ったが、従うしかなったわ」
「村長がみんなの前でお告げを発表したとき、何か変な様子はなかった? いつもと違うようなところとか、違和感を感じたこととか」
「そうじゃなあ」
 ひでじいはしばらく考えて言った。
「長老様がみんなの前で話をするときには、ときどき顔の一部が、きらりと光っていたんっじゃが、あのお告げの日から、光らなくなった気がするわ」
「ときどき々顔が光る?」
 それが長老の霊能力だとでも言うのかしら。
 雪江は息を切らせながら、二人の会話を聞ていた。
「光っていたのは、顔のどの辺りです?」と明広。
「よう分からんかったわ。長老はベールで顔を隠しておられるし、離れた場所からしか見ることを許されておらんでのう」
 明広は厳しい目をして、黙ったまま何度も頷いた。
「もしかして、長老の顔が光っていたのは天気のいい日だけだったんじゃない?」
「そう言われればそうじゃな。曇りの日は光らんかったわい。それがどうかしたのか?」
「何でもないよ。聞いてみただけ。あっ、着いたよ。あれでしょ。長老の家」
 明広は前方に目を向けた。
 雪江は全身に震えが走るのを感じていた。
 犯人を特定できないまま来てしまった。時間ももうない。おしまいだ。犯人を見つけられなかった私は、村人たちに捕まえられる。
 雪江は考える気力も失せて、弱気になっていた。
 家に上がると、雪江は足を引きずるようにして歩いた。
「お嬢さん、大丈夫か?」
 急に元気のなくなった雪江を心配して、ひでじいが話しかけた。
「私、ほんとに村から出られなくなるんでしょうか?」
「長老の言うことには、みんな従うからのう。犯人を見つけられなかったとなれば、牢屋に閉じこめられる。こればかりはわしにもどうにもできんのじゃ」
「ねえ、おじいさん。トイレどこ?」
 明広は股間を押さえた。
「そこの角を曲がってすぐじゃ。扉はないからすぐに分かるはずじゃよ」
「ありがとう」
 明広は走っていった。
「大切な姉が、もうすぐ牢屋に閉じこめられるというのに、のんきな子だわ」
 明広の背中を見ながら、雪江は呟いた。
 自分がいなくなったら、明広は独りぼっちになってしまうと思うと、雪江は是が非でも犯人を見つけようという気になるのだが、タイムリミットを前にして、頭は空回りするだけだった。
 引き戸をゆっくりと開けると、集まった村人の目が一斉に雪江に向けられた。
「ど、どうも」ひきつった笑顔であいさつした。
「まあ、座りなさい」
 長老は自分の座る正面を指差した。雪江は足音をたてないように移動すると、目を伏せて正座した。
「さて、小娘。時間じゃぞ。綾を殺した犯人はどこじゃ?」
「それは……」
「何も答えないところをみると、犯人を見つけられなかったようじゃな」
「……」
「まあ、よい。今日の私は機嫌がいい。自分が綾を殺した犯人ですと自白したら、特例で村を出してやってもいいぞ。もちろん、それなりの罰は受けてもらうがな」
 雪江は悩んだ。
 犯人は自分じゃないと主張し続けたら、一生村に閉じこめられたままだ。それならいっそう、自分が犯人だと告白してしまった方がいいのかもしれない。殺人犯になったとしても、私は明広のそばにいてやらなければならないのだ。
「分かりました。告白します」
 雪江は背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んだ。
「私が、昨日の晩、綾さんを……」
「ちょっと待った」
 部屋の人間全員が声のする方を見た。
「あ、明広」
 雪江が声を出したのを聞いて、村長が言う。
「あの少年はあんたの知り合いかね」
「はい、私の弟です」
「弟の教育はしっかりしとかんといかんのう。人の家で突然大声を出すなんて非常識な子じゃわ」
「やい、ばばあ。これから僕が綾さんを殺した犯人を暴いてやるから、しわくちゃの耳の穴をかっぽじってよく聞け」
 雪江はびくりとして背筋を伸ばした。
「げっ、明広のやつ、いきなり何を言い出すのよ」
「ほう。兄弟そろって面白い子たちじゃわ。よし、坊やの推理を聞かせてもらおうか」
 雪江は駆け寄って、明広の耳元で囁いた。
「何しにきたのよ。お姉ちゃんがなんとかするから、あんたは黙ってなさい」
「いいから、少しだけ僕に時間をちょうだい」
 明広は、得意満面、眉を吊り上げた。
「綾さんは月に一回。夜中に誰かと密会していました。綾さんは、その人物に殺害されたんです。そして、その人物はこの中にいます」
 村人たちは口々に驚きの声を上げた。明広はその様子を眺めて、気持ちよさそうに微笑んだ。
「明広、本気で犯人を言い当てる気?」
「もちろん」明広は笑顔でウインクした。
「で、犯人は誰だと言うんじゃ?」長老が言う。
「そう焦らずに。ちゃんと順番に説明していきますから。まず、昨日の夜のことから話しましょう。僕たちは綾さんの家で晩ご飯をご馳走になったあと、両親の寝室で寝ました。しかし、僕は夜中、囲炉裏のある部屋の方から聞こえてくる、物を引きずるような音で目が覚めました」
 明広も音を聞いていたんだ。
 雪江はすがるような目を明広に向けた。
「朝、囲炉裏の部屋で綾さんの死体が発見されたことから、あの音は犯人が綾さんを殺害してから移動させるときの音だと想像できます。では、どうして移動させる必要があったのでしょう?」
「さあな」
「恐らく犯人は、死体を外に運び出そうと考えたんです。森の中に埋めて、綾さんが失踪したことにしようとしたんです。綾さんがいなくなっても、村の人たちは両親を捜しに行ったんだと思って誰も殺されたなどと疑いません。でも、結局、犯人はそうしないで、死体を家の中に置き去りにしたんです。何故でしょう? それは、死体を玄関のある囲炉裏の部屋まで運んだとき、竿に見慣れないジーパンと靴が干してあるのを見つけたからです。村でジーパンをはく人間はいません。犯人は慌てたはずです。誰もいないと思っていた綾さんの家に、誰か知らない人物が泊まっているかもしれないことを知ったんですからね」
「なるほど。ひょっとして、殺したときの物音で目が覚めて、誰かが起きてくるかもしれない。そう思って犯人は死体を置いたまま逃げたって言いたいわけじゃな」
「ご名答。逃げる途中の姿は、ひでじいさんに目撃されています。若い女性だったそうです。まあ、若いといっても老婆ではないということですが」
「その女性が犯人ってことじゃな」
「はい。しかし、昨日の大雨で村に通じる道は遮断され、誰も村に入ることはできなくなていました。ですから、犯人は外部の人間でなく、村に住んでいる人物と言うことになります」
「ちょっと、まちなされ。綾と密会するような若い女性など村には住んどらんぞ」
「いえ、いますよ」
「誰じゃ?」
「それを今から説明します。綾さんは夜中、待ち合わせした犯人を家に招き入れた。そして、犯人に殺されたわけですが、では、どうして、殺されたのでしょう? それは、綾さんの残した日記が教えてくれました。一ヶ月前の日記にこう書かれています。
『こんなことはもうやめなければいけない』
 恐らく綾さんは、昨日密会した犯人に、隠れて会うのはもうよそうと言ったんだと思います。しかし、納得できなかった犯人は逆上して、近くにあった縄で絞め殺してしまったんです。衝動的な殺人だったことは、その場にあった縄を使用したことからも明らかです。計画殺人なら凶器を準備してきたはずですから」
 大人顔負けの推理をする明広を、まるで人が変わったようだと感じながら雪江は見ていた。
「どうです。もう犯人が分かったでしょう」
「いいや。さっぱりじゃ」
「鈍い人ですねえ。いいですか。犯人は、村に住んでる人間で、僕たちが綾さんの家に泊まることを知らなくて、若い女性で、綾さんと秘密で会わなければいけない人ですよ」
「だから、犯人は誰なんじゃ。じれったい子じゃなあ」
 村長は、とんとんと指で床を弾いた。
「じゃあ、言いましょう。この条件に当てはまるのは、ただ一人」
 明広は素早く立ち上がった。
「犯人は、この幸福村の村長、あんただ」
 明広の右目は異常なまでに見開かれた。
 部屋は静まり返った。
「はははは。何を言い出すかと思えば、わしが犯人だって? ばかを言うな。あんたが言った条件。わしがみたしとるのは、村に住んでいて、あんたらが綾の家に泊まっていたのを知らなかっただけじゃ。わしは百歳を越えておる。若くもないし、綾と秘密で会う必要もない。それに、足腰が悪くて、坂の下まで降りることもできんわ。
 もういい。この期に及んで、村長のこのわしが犯人じゃなどとほざきおって、失礼にもほどがあるわ。この不届きな若者二人をすぐに牢獄にぶち込め」
「何よ。最悪じゃない。明広のばかー」
 村人に取り囲まれた雪江の目には、わっと涙が滲んだ。
「待って、まだ話は終わってない」
 明広の言葉で、全員の動きが止まった。
「僕の言い方が悪かったようですね。今度はしっかり、はっきりと言いますよ」
「明広、もう無理しなくていいよ。お姉ちゃんが牢屋に入れば済むことなんだから」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんをつかまえさせたりしないさ」
 明広は再び村長に向かって声を張った。
「改めて言いましょう。綾さんを殺した犯人は、幸福村の村長、いや、綾さんの生みの親、佐藤雪江。あんただ」
「佐藤雪江? 二十年も前に村から失踪した綾さんのお母さんが、どうして村長なの?」
 雪江は何がなんだか分からなくて、明広と村長を交互に見た。
「また、苦し紛れの大嘘かい。子供だからってあんまり調子に乗るんじゃないよ」
「嘘かどうかは、僕の説明を聞いてからにしてください」
「いいじゃろう。説明を聞こう」
「二十年前、子供の名前をつけてもらおうと、村長のもとを訪れたあんたは、子供の将来を占ってもらい。自分が村を出ないと子供が不幸になると言われた。村を出ていけと言われたことに腹を立てたあんたは、発作的に村長を殺してしまった。村長が殺されたとなれば大騒ぎになる。そこであんたは、子供を坂の下に放置し、村長に変装したんだ。村長はいつもベールを被って顔を隠しているし、近づくことも許されない。さらには、相手にするのは老人だけ。変装して村長になりきるなんて、たやすいことですよ」
「……」
「村人がやってきたら、雪江は占いの結果に従って、村を出たと言えばいい。夫の康夫さんに何も言わないでいなくなったのは、村長に変装してしまってからでは、言いに行く時間がなかったからです」
「そんなのでたらめじゃ」
「とうとう、焦りはじめましたか? 次に、村長の死体の始末ですが、埋めるにしても埋められる場所まで運ばないといけないから、人に見られる可能性がある。なるべく安全に処分したかったあんたは、お告げを利用することにしたんです。村の中で死んではいけない。死体があってもいけないというお告げを出し、埋葬してある死体も燃やせと言う。その火葬の中に、村長の死体を紛れ込ませたんですよ。灰にしてしまえば見つかる心配はない。一晩おいて、次の日に火をつけさせたのは、夜中に村長の死体を紛れ込ませる時間を稼ぐためだったのでしょう」
「おい、お前たち。早く、この嘘つきをつかまえてしまえ」
 村長は村人たちに命令したが、誰一人動こうとしなかった。
「どうやら、賢い村人のみなさんは、僕の言うことを信じてくれているようですよ。さて最後に、綾さんの殺害ですが、彼女の日記に、密会の話が登場するのは、一年前、これは、綾さんの父の康夫さんが、雪江さんを探しに村を出た時期に一致します。恐らく、綾さんはお父さんがいなくなり、これからどうしたらいいのか、村長のあなたに相談しに来たのでしょう。娘が一人で相談しに来て、涙でも見せたのではないでしょうか? あなたはうっかり、自分が母親であることを告白してしまったに違いありません。かわいい娘に、父親がいなくなったあとも嘘をつき続けることができなくなったのかもしれません。とにかく、あなたは一ヶ月に一回だけ、母として綾さんの家を訪ねることにしたんです」
「……」
「しかし、綾さんは、母が村長だと嘘をついて、みんなをだましていることに耐えられなくなった。そこで、もう嘘をつくのをやめて、本当のことを話そうと言い出したんでしょう。ところが、二十年にわたって村長のふりをし続けていたあなたは、今さら本当のことを言うことはできない。言ってしまえば、村人にどんな仕打ちをされるか分からないし、女王様のような自由気ままな生活もできなくなる。だから、自分の娘である、綾さんを殺害したんです」
「そんなのわしが犯人である証拠にはならん。お前の妄想じゃ」
「綾さんが殺害されたとき、どうして僕たちは目が覚めなかったのでしょう? 綾さんが犯人に抵抗して物音を立てたり、声を出したりしていたら僕たちは目を覚ましたはずです。でも、寝室に聞こえてきたのは、死体を引きずる音だけ。何故綾さんは声を出さなかったか? それは犯人が自分の母親だったからです。愛する母に殺されるんであれば抵抗しないで、素直に死のう。そう考えたんだと思います。綾さんはそれほどまでに、あなたのことを信頼していたんですよ」
「わしは二十年前も、今も村長じゃ。証拠もないくせに、でたらめばかり並べおって」
「証拠ならありますよ」
「ほう、おもしろい。見せてみい」
「本物の村長は、顔の一部がときどき光っていたそうですが、何故あなたは光らないんです? 光らないあなたは偽物だ」
「くだらん。わしには霊能力はあるが、顔を光らせることはできん。光って見えていたのはただの見間違いじゃ」
「光るような物は、あなたの顔にはないというのですね」
「そうじゃ」
「あなたは、百歳を越えているんですよね」
「そうじゃ、今年で百歳になったわ」
「では、歯は何本残っています?」
 村長はベールの向こうの口をさっと押さえた。
「あなたの抜けたように見える歯は、お歯黒を塗っているだけで、本当は全ての歯がまだ残っているんじゃないんですか? 本当に百歳なら歯が残っているということはあり得ないでしょう」
「……」
「あなたは、村長の顔が光ることを知らなかったみたいですが、あれは銀歯が光っていたんですよ。天気のいい日。窓から射し込んだ光が、黒いベールの隙間から銀歯に当たり、光を放っていた。それを、みんなは顔が光っていると勘違いしていたんですよ。そして、これが、村長の銀歯です」
 そう言って、明広は銀歯を取り出した。
 明広はトイレに行くといって金歯を探しにいっていたのか。
 雪江の顔はぱっと明るくなった。
「あれっ、明広。あんたそれ……」
「黙ってお姉ちゃん」
 明広は雪江の口を押さえた。
「あんな短時間で、二十年前に焼かれた死体の銀歯を見つけることなんてできっこないでしょ。それに、光っていたのは多分、銀歯じゃなくて金歯」
「……」
 明広がみんなに見せていたのは、車の中で見つけたパチンコ玉だった。老人相手なら騙せると踏んだのだ。うまく動かしていたし、銀歯だと先入観を植え付けられていたので、誰も偽物だと気がつく者はいなかった。
「ばかな。お前が銀歯なんぞ持っているはずがない」
「これは、二十年前。あなた達が死体を燃やした場所にあったものです。掘り返してみたら出てきましたよ。いいかげんに諦めたらどうです?」
 村長は挙動不審で、目を泳がせた。
「お姉ちゃん」
 明広は雪江に目で合図を送ると立ち上がり、二人で村長に歩み寄った。
「ま、待て。来るんじゃない。近寄ってはならん」
 村長は這うように後ろに下がっていく。
「さあ、顔を拝ませてもらおうじゃない」
 雪江は長老のベールをつかむと、一気に引き剥がした。
 中から出てきたのは、おばあさん風にメイクした中年の女性だった。
「ほーら、やっぱり僕の言ったとおりでしょ」
「あんたが、雪江さんね」
 長老のふりをしていた女性は、下唇を噛み締め、雪江を見上げた。
「そうよ。私が雪江よ。子供だと思って油断したのが失敗だったわ」
「どうしてよ。母親のあんたがどうして綾さんを殺したのよ。そんなに村長の座が大切だったの?」
「私が村に来たのは二十年前。当時二十五歳だった私は、都会の人混みの中での暮らしにうんざりし、田舎の生活にあこがれていたの。夫も、私以上に都会が嫌いだったわ。それで、二人で話し合って、田舎に引っ越すことになったの。夫の知り合いに、この村に住んでいる人がいたから、村に移住できるように手配してもらったわ。田舎ならどこでもいいと思っていた私たちは、すぐに村に来た」
 佐藤は急に口を力強く閉じ、恨みのこもった目を村人たちに向けた。
「でも、村での生活は私があこがれていたような楽しいものではなかった。手で洗濯をして、食べ物は自分たちで作り、夜は暗くなったら寝る。さらには、奇妙なお告げによって決められるしきたりの数々。私は一ヶ月もしないうちに、帰りたくなったわ。都会に帰ろうと夫に相談したんだけれど、彼は生活を楽しんでいたから、あっさりだめだと言われた。それでも、私はなんとかして帰りたいと思ったけれど、子供も産まれそうだったし、一人で帰っても生活していく自信がなかったから、我慢するしかなかった」
 雪江は佐藤の言葉を自分に当てはめて考えていた。
 田舎での生活を楽しそうだと感じていたけれど、実際は面白くもなんともないのかもしれない。のんびりできる代わりに、きつい農作業をしなければ生きていけないし、自然と交流する以外の楽しみはない。綾が言っていた通り、ない物ねだりの人間が、田舎ののどかさにあこがれているだけなのだろう。実際、住んでみれば、こんなはずじゃなかったとすぐに帰りたくなるのが落ちだ。
「村の生活はきつかったけれど、一人だけ楽して暮らしている奴がいた。村長よ。彼女は足が悪いからと言って、自分は何も働かないで村人に食料を運ばせ、洗濯をさせ、家の掃除もさせていた。もちろん私も手伝ったわ。村人たちは、村長のお告げのおかげで村の平和は保たれていると思い込んでいるから、誰も反抗しない。私はしだいに、自分の手に入れられなかった自由を満喫している村長に、憧れを抱くようになったわ」
「わしらは、あんたが村の生活を楽しんでいるのだとばかり思っておったのに」
 村人が言った。
「演技に決まってるでしょ。誰が、こんな小汚い村の生活を楽しめるっていうのよ。坊や。今のあんたの推理見事だったわ。ほとんど全て正しかったけれど、一つだけ違っていることがあったわ。それは、私が村長を発作的に殺したってところよ。私は勢いで村長を殺したんじゃない。殺すために村長を訪ねたのよ。最初から、村長の座を乗っ取ろうと思っていたのよ」
「村長を殺して成り代わるのは、計画的な犯行だったのか……」
 明広は、力が抜けて床に座り込んだ。計画的な犯行ということがショックだったようだ。
 どうしたんだろう。明広のやつ、計画的ってことがそんなに意外だったのかしら。
 雪江はうなだれる明広の横顔を眺めた。
「私は子供を残して逃げたことにしようと思っていたんだけれど、好都合なことに、村長は私が村から出ていかないと、子供が不幸な一生を送るという占いをしてくれたわ。だから、計画通り、村長を殺して、私は占い結果に従って村を出ていったことにしたのよ。もっとも、村長の霊能力は本物だったのかもしれないわね。綾は、私が村から出ていかなかったおかげで、殺されてしまったわけだからね。不幸な一生だったわ」
「何よ、他人事みたいに言って。あんたが殺したんでしょ。綾はいつもあなたたち両親のことを思いながら生きていたのよ。それなのに、殺すなんて。私はあなたを絶対許さないから」
「夜中に綾の家を訪ねると、あの子は私に言ったわ。母さん、ほんとのことをみんなに打ち明けよう。私も一緒に謝るから、罰を受けて村を出ようってね。しかも、母さんが言わないのなら、明日、自分がみんなの前で告白すると言ったわ。嫌だった。何不自由なく生きてゆける生活を今さらやめることなんてできない。私は子供なんかより、何もしなくていい、楽な生活をすることのほうが大切なのよ。だから、綾を殺したわ」
「嘘よ。楽に生きたいから子供を殺すなんて、そんな親いるわけない」
「あなたは若いから何も分かっていないのよ。親が子供を育てるなんてね。老後に面倒をみて欲しいからに決まっているわ。他に理由なんてない。村長みたいな女王様になって、老後の心配がいらなかったら子供なんていなくていいのよ。どうせ、役立たずなんだから」
 突然、ぱんと風船が割れたような音がして、佐藤の体がよろめいた。
 佐藤はほっぺたを押さえながら言う。
「何よ。急にたたいて」
 佐藤に平手打ちを食らわせた明広は、唇を震わせていた。
「ふざけるな。親がなあ、子供を育てるのには、細かい理由なんてないんだよ。生まれてきた子供がかわいいから育てる。ただそれだけだ。お前だって自分の子供がいとおしくて仕方がなかったんじゃないのか? だから、綾に村長の自分が、実は母親だと告白したんじゃないのか? 子供のことなんてどうでもいいと思っていたのなら、綾が父がいなくなって落ち込もうが、悲しもうが、関係ないと無視していればよかっただろう。自分が母親だなどと言って、慰める必要なんてなかったんだよ」
「あんた。子供のくせに、私の夫みたいな口のきき方をするのね」
「……」
「とにかく、私はもう村に居続けることはできないようね」
「私たちと町に戻って、警察に自首しなさい。罪を償うのよ」
 雪江が厳しい目を向ける。
「自由を奪われるのは、いやよ。ぐ、ぐはっ」
 佐藤の口から血が噴き出した。押さえた手から血が漏れて、ぽたりぽたりと床に落ちた。
「しまった。いつの間にかに毒を……」
 明広が駆け寄る。
「まさかさっき、お歯黒を確かめるために口に手を当てたとき、毒を飲んだのか?」
「せ、正解。あなたの話し方、夫の康夫にそっくりだったわ。も、もしあの人に会ったら、  ごめんなさいと言っていたと伝えて」
 佐藤は明広の腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。
「雪江、雪江」
 明広の叫び声は、むなしく部屋に響いた。
「終わった。何もかもが……」
 雪江はほっと胸をなで下ろすのと同時に、後味の悪さを感じた。
 どんという物が倒れる音で、雪江は反射的に背筋を伸ばした。見ると明広が倒れている。
「明広。どうしたの?」
 顔が真っ赤になっている。額に触ると、すごい熱さだった。
「また熱だわ」
 雪江は立ち上がって、村人たちに言った。
「すいません。すぐ病院に行きたいので、車を引き上げるのを手伝ってくれませんか?」

 雪江は、明広を病院で診てもらい、薬をもらって家に帰った。疲れきった体で、明広を布団に寝かせ、時計を見ると、午後七時。
 雨が再び降り出し、窓を叩いていた。
 とんでもなくハードな一日がやっと終わったかと思ったら、明日からはまた会社だ。
 雪江は溜息をつきながら、明広の頭をなでた。
 一向に熱の引かない明広は、苦しそうに息を荒げている。雪江は優しい声で語りかけた。
「今日はありがとう。推理見事だったわ。あなたがいなかったら、私は一生村に閉じこめられるところだったわ」
 正座して、手をひざに置いた。
「今度は、私が推理を疲労する番、ちゃんと聞いてね」雪江は独り言を続ける。
「私たちが幸福村に行けたのはどうしてなんでしょうね? あなたにナビを任せて、道に迷って偶然たどり着いたのには、あまりにややこしい道のりだったわ。村から帰るのに一苦労だったもの。それに、地図にも載っていない道を、あなたはまるで一度通ったことがあるかのように私を誘導した」
「……」
「まだ何も答えてくれないのね。じゃあ、続けるわね。あなたは目の手術のあとから、急にそれまでまったく興味のなかった写真を撮ることをはじめたわね。あれはどうして?」
「……」
「綾さんを殺した犯人を追いつめる推理、子供のあなたが、どうしてあんなことをできたのかしら?」
「お姉ちゃん。何が言いたいの?」目を閉じたまま、小声で言った。
「やっと話してくれた。私が言いたいのは、あなたは、明広であって、明広ではないということ。こんなこと、今まで私は信じていなかったんだけど、いろいろな事実を積み重ねて考えた結果、そういう結論に達するしかないの」
「意味が分からないんだけど」
「じゃあ、はっきりと言うわ。どういう仕組みなのか、理論なのか、非現実的すぎてさっぱり分からないけど、あなたは目の移植手術したと同時に、ドナーの人の魂まで移植されたのよ」
「……」
「私も自分で言っていて、信じられない気持ちで一杯なんだけれど、どうやら事実みたい。世の中には、人間の理解の範囲を超えた現象が存在するってことかしら。ねえ、明広の右目のドナーであり、綾さんのお父さんでもある、佐藤康夫さん」
 明広は、しばらく黙り込んだあと言った。
「……。見つかりましたか。あなたの推測通り、私、佐藤康夫の魂は、この子の体に入り込んだようです。いつから気がついていました?」
「私は、ある本で、心臓移植を受けた子供に、ドナーの心が乗り移り、趣味や好きな食べ物が同じになったという話を読んだことがあったんです。ですから、明広が入院してから、急にカメラに興味を持ち出したとき、もしかしたら明広も同じなんじゃないかと思ったんです。でも、常識から外れたようなことを本気で信じてはいませんでした」
「そうでしょう」
「ですが、村に行って、綾さんの父親の名前が康夫だと知って、もしかしたらと再び疑い始めました。確信したのは、あなたが村長の家で推理をしているときです。小学生の明広には考えられないような、見事な推理だったし、話し方、言い回し、どれを取っても子供とは思えない。だから、きっと操られているに違いないと思いました」
「なるべく子供っぽくしようと努力したんですがねえ」赤い顔がさらに赤くなった。
「明広が熱を出し、『雪江、雪江』と叫んでいたのは、明広が私を呼んでいるのではなく、康夫さんが、妻の雪江さんを呼ぶ声だったんですね」
「そうです。だましたようで申し訳ありません。私は、明広君が熱を出して体調を崩したときに、表に出やすいようです」
「そうですか」
「私は綾に、母を見つけられないまま死んだことを伝えたかったのです。それだけを伝えたら、もう二度と明広君の体を使うようなことはしない。そう誓って、村に誘導したんです。それなのに、私の死を知らせる前に、綾は亡くなりました」
 明広の目尻から涙が流れ、枕に染みを作った。
「悔しさを晴らすために犯人を探すことにしたんですね」
「そうです。でも、まさか綾を殺した憎き犯人が、私が探し求めていた愛する妻だったとは思っていませんでした。妻の罪を暴くことに多少のためらいはありましたが、許すわけにはいきませんでした」
「毒を飲むのに気づかず、みすみす奥さんを死なせしまって、ごめんなさい。もう少し私が注意深ければ、止められたのかもしれないのに」
「気にしないでください。あれはどうしようもありませんでした。もとはと言えば、妻が都会に帰りたいと言ったとき、むげに断った私のせいです。それで、妻を計画的に村長を殺させるまでに追い込んでしまった」
 あらたまった顔で雪江を見た。
「明広君の体を使わせていただいて、ありがとうございました。私はもう二度と表には現れないように、深い場所で眠り続けるつもりです」
 そう言うと、明広の目はゆっくりと閉じた。
「待ってください」
 呼び覚ますように、明広の手をつかんで言う。
「えっ?」
「もう二度と現れないなんて言わないでください。私たちには両親がいません。明広を守ってやれるのは私だけなんです。でも、たえずそばにいてやることはできません。だから、明広が自分ではどうしようもない危険にさらされたとき、助けてやってはくれませんか? いつもそばで、見守っていてあげてはくれませんか?」
 明広の目は驚いたようにしば