武史と範子が知り合ったのは、大学のテニスサークルだった。入学当初から、範子はひどい不眠症で悩んでいた。受験勉強の疲れと新生活のストレスが影響しているらしかった。同じように不眠症の経験がある武史は、すこしでも範子を楽にしてやろうと、相談相手になってあげた。
二人は毎日、大学の講義が終わるとファミレスで待ち合わせをして暗くなるまで話をした。自分の気持ちの深い部分まで話すようになるに連れて、範子は、武史のことを単なる相談相手ではなく、恋愛感情を抱くようになっていった。
武史はコーヒーをかき混ぜる手を止めた。窓の外に目を向けると、コートの襟を立てうつむきながら歩く男の足元を、枯れ葉が踊りながら転がっていた。
「最近は以前よりは寝れるようになったんだよね。昨日は?」
「三時間くらいかな? でも、眠りが浅いから夢ばかり見るの」
「いいじゃん。夢だと現実では味わえないようなスリリングなことが、あたかも現実のように感じられるだろ。夢の中で死んだってすぐ生きかえるんだから」
武士は頬を緩ませ、コーヒーに口をつけた。
「楽しい経験が毎日できて羨ましいよ」
範子は決心したように、下唇を強く噛むと、背筋をのばした。
「武史の凍りついた道路をとかす朝日のような暖かな言葉、いつも私を励ましてくれたわ」
「何だよ急に、真面目な顔して」
窓のすぐ前を、カップルが腕を組んで笑顔で歩いている。
「そばにいて欲しいの」
舌足らずな範子のセリフが武史の脳裏で繰り返す。範子のほんの微かな香りが柔らかく武史を包んでいた。それは、淡いクリーム色を連想させる、少し甘くて清潔そうな香りだった。
「……」
「今だけじゃなくて……。ずっと」
武史はそれが愛の告白であることを悟った。
「ここは夢の中じゃないんだ。ずっと傍にいて欲しいだなんて言ったら、本当に死ぬまで君から離れないよ」
「うん、かまわない」
不安そうな目を向ける範子に、武史は優しく微笑んだ。
範子は、一生傍にいる、と言われて世の中の全ての幸運を手にしたような気持ちになった。しかし同時に、それが星に願いをかけるような淡い約束だということも分かっていた。
二人が付き合うようになって一年がたった。範子は相変わらず不眠症で寝不足の毎日が続いていたが、一人暮しの範子のもとに、毎日武史が訪ねて来てくれていたから、なんとか耐えることができていた。
「コーラある?」
範子の部屋でコートを脱ぐと武史が言った。
「あるけど、こんなに寒いのにコーラなんか飲むの?」
「外は寒いけど、部屋は暖かいだろ。外を歩いていたら、喉が乾燥してさあ。強い刺激が欲しいんだ」
「はいはい、ちょっと待ってね」
範子は冷蔵庫からコーラの缶を取り出し、コップに注いだ。
「で、話ってなんだい?」
「ああ、話ね」
小声で言うと、範子は武史の前にコップを置いた。その手は微かに震えているように見えた。
「ああ、じゃないよ。電話で思いつめたように言うから、慌てて来たんだぞ」
「ごめん」
範子は正座してうつむいた。わずかに眉を動かし、微かに溜め息をつきながら自分の中の言葉を探しているらしかった。ひどく残酷なことをしてしているのではないか、範子を困らせていると思った武史は、もう、いいよ。テレビでも見よう、と言おうとした。しかし、範子の方が先に口を開いた。
「……ができたみたい」
あまりに小さい声で、武史には届かなかった。
「何だって? 聞こえない。もう一回、言って」
耳を向けた武史に向かって、範子ははっきりとした口調で言った。
「子供ができたみたい」
あまりに突然の告白に、武史は戸惑いを隠せない様子で範子の手元に目をやった。頭の中では、伝えたい気持ちを表現をする言葉が見つからず、ありふれた言葉がコーラの泡のように生まれては消えていった。
「私、どうしたらいい?」
範子は、不安そうな表情を浮かべる武史の気持ちを読み取ろうと、目の奥を覗きこんだ。
「結婚しよう」
武史の言葉に表情一つ変えない範子は、しばらく黙ったまま武史を見つめた。風が窓を揺らす微かな音が気になるくらいに静かな時が流れた。そして、音がやむと、それを合図にするように範子が声を出す。
「私に子供ができてしかたがないから、結婚しようって言ってるだけでしょ。武史は私に愛情なんてないのよ」
「待てよ。俺はお前のことが好きだし、愛してるよ」
「そんなの絶対嘘よ。つきあい始めてから愛してるって一度も言ってくれたことなかったし、毎週のように私からお金を借りていってるのに一度も返してくれたことないじゃない。どうせ、お金が目当てで私とつきあっているんでしょ?」
風船が割れたような音が部屋に響いた。範子が頬に手をやると、潤んだ瞳から涙が流れた。
「ごめん……」
武史は、範子の頬を叩いた手の平を後悔するように見つめた。範子の傍をすりぬけ、武史はベランダへ出る戸を開けた。乾いた冷たい風が吹き込み、部屋が一瞬にして凍りついた。
範子は武史の行動を黙って見つめた。
ビルの七階のベランダに立った武史は、遠くを見つめた。目線の先には無数の街の光が映る。車のヘッドライトの光が、小さな虫のようにゆっくりと動いていた。
「なあ、範子」
範子は涙でぼやける目をベランダに向けた。
「前に言ったよなあ。死ぬまで傍にいるって」
よろよろと立ち上がって、範子はベランダまで歩き、かすれる声で言った。
「うん、覚えてる」
「それも、今日でおしまいだ」
「どういうこと、武史。何をする気?」
武史はベランダに足をかけると、手摺の上に立った。
「ここ七階よ。危ないから降りて」
「来るな」
駆け寄る範子を一喝した。範子は恐怖で動けなくなった。
「君に信用されないのなら、死んだ方がましだ」
「そんな……」
「今まで、僕に優しくしてくれてありがとう。死ぬまで傍にいる。その約束は守るよ」
「だめ、死なないで。これからも私の傍にいて」
範子の喉が擦り切れたような叫び声を聞きながら、武史は満足げな笑顔を浮かべた。そして、全身の力を抜いた。
武史の体は、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちながら、範子の視界から消えていった。範子は必死に手を伸ばしたが、触れることなく、武史の体は闇に消えていった。
ベランダにへたり込むと、涙が溢れ出た。言葉が何も出てこない。心が枯れるほど泣いて、涙の海へ悲しみを沈めてしまいたかった。
どれくらい泣き続けただろうか、体は冷えきって青白くなっていた。
ふと、人の気配を感じて、範子は視線を上げた。
「あっ」
信じられないといった表情で、範子は顔を強張らせた。
「何やってるんだ。ベランダなんかで」
「た、武史。どうして……」
目の前に立っていたのは、さっきベランダから落ちたはずの武史だった。
「どうしてって、何だよ。お前が電話で大事な話があるっていうから、急いで来たのに」
範子は混乱した頭を整理するために、大きく息を吸い込んだ。そして、武史に電話をした直後に、急に睡魔に襲われて眠ったことを思い出した。今さっき、武史がやってきたのも、ベランダから落ちたのも全てが夢だったのだ。
「どうせ、またいつものように夢でも見ていたんだろう。いくら不眠症だからって、夢ばかり見過ぎだぞ」
「う、うん。ごめん」
「まあ、いいよ。早く中に入れよ。風引くぞ」
範子は戸を閉めると、毛布に包まって座った。
「コーラある?」
コートを脱ぐと武史が言った。
範子は、夢の中に出てきた武史と同じだと冷静に考えていた。
「あるけど、こんなに寒いのにコーラなんか飲むの?」
「外は寒いけど、部屋は暖かいだろ。外を歩いていたら、喉が乾燥してさあ。強い刺激が欲しいんだ」
「はいはい、ちょっと待ってね」
範子は冷蔵庫からコーラの缶を取り出し、コップに注いだ。
「で、話ってなんだい?」
「ああ、話ね」
小声で言うと、範子は武史の前にコップを置いた。その手は微かに震えているように見えた。
「ああ、じゃないよ。電話で思いつめたように言うから、慌てて来たんだぞ」
「ごめん」
範子は正座してうつむいた。わずかに眉を動かし、微かに溜め息をつきながら自分の中の言葉を探しているらしかった。ひどく残酷なことをしてしているのではないか、範子を困らせていると思った武史は、もう、いいよ。テレビでも見よう、と言おうとした。しかし、範子の方が先に口を開いた。
「……ができたの」
あまりに小さい声で、武史には届かなかった。
「何だって? 聞こえない。もう一回、言って」
耳を向けた武史に向かって、範子ははっきりとした口調で言った。
「新しい恋人ができたの」
END
死ぬまで、そばにいてカテゴリの記事一覧