薄汚れたアパートの一室。
私はペンを握る手を止めた。三十過ぎとは思えないほど皺の多い手が、蛍光灯の光に照らされた。
東京生まれの私が、この人里離れた山奥に来なければならなかったのには、それなりの訳があった。会社での出来事。今思い出しても、どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと後悔だけが先に立つ。
こうして白紙の原稿用紙を目の前にしていると、頭の中には、あの日の映像が白いマスを埋めるように、はっきりと浮かんでくるのだ。
記憶を振り払うように大きく首を振って、溜息をついた。私の首は折れそうなほど細く、首と胴体をやっと繋げている。
曇った窓を手で拭いて、外を見ると人影はなく、乾いた風が砂を運んでいる。道の遙か向こうに街灯がやさしく灯っていた。
点いたり消えたりするその光を見ながら、自分の死期が迫っていることを感じた。
償い列車。
出会った人たちは皆、充実した日々を過ごしていることだろう。
「もう、私の人生も終わりか……」
そう呟いた刹那、全身を揺らしながら咳き込んだ。私は自分の咳を聞きながら、記憶を辿っていった。
三重県、鈴鹿山脈の麓の村。洞江村。地図を見ながらでも、通り過ぎてしまうような小さな村。人口の何十倍もの家畜が飼われ、人々は夜が明ける前から仕事に向かう。夜、空を見上げると見ることができる満天の星空は、宇宙の神秘を感じさせる。
私がこの村に来たのは丁度一年前、朝から強い雨の降る日のことだった。田舎町ならいっそうのこと、雪でも降ってくれたら、情緒もあって楽しめるかもしれないのに、と残念に思ったことを覚えている。
しかし、逃げるようにしてこの村にやってきた私にとっては、実際、雪を見たとしても、心を落ち着けて鑑賞することができたとは思えない。
東京で某大手電気メーカーのエンジニアとして働いていた自分は、もう過去の人物。この村で、作家として新たな第一歩を踏み出さなければならなかったのだ。
私は借りたアパートを目指し、坂道を上った。
舗装されていない土道を流れる雨水は茶色く濁り、あっという間に靴に染み込んできた。耳元では傘が雨を弾く音が、絶え間なく続いている。
部屋に着いたら、すぐにジーパンと靴下を履きかえなくてはいけないな、などと考えていると、坂の頂上付近にアパートが見えた。
「あそこだな」
コートの襟を立て、足を早めると、ジーパンにへばりついた太股から全身に、震えが伝わった。
頭の中で同僚の声が聞こえた。
高瀬博信。
入社してから五年間。同じ部署で苦楽を共にしてきた仲間だ。
場所は会社の喫煙所。
「明日の企画会議何か良いアイディア浮かんだか?」
最も聞かれたくない質問だった。私は煙草を口にくわえ、火を点けた。
「だめだな。何も浮かばない。アイディアなんてもうほとんどが出尽くしてしまっているから、今更考えても、いいものなんて出てこないと思うけどね」
「それは言い訳ってもんだよ。十九世紀終わり頃の科学者たちは、もう自然界のほとんどのことが分かった。これ以上新しい発見はないだろうと思っていたらしいじゃないか。ところが二十世紀に入っても、新しい発見がなくなることはなかった。だから、もうこれ以上はない、何もかも考え尽くしたと思っていても、実際にはまだまだ考える余地があるってことだよ」
「へー、言ってくれるじゃないの。そこまで言うんだったら、君は何か新しいアイディアがあるんだろうね」
「もちろん。明日の会議のときに驚かせてもいいんだけど、君には教えておくよ。同じアイディアがぶつかるといけないしね」
そう言って高瀬は、丸秘と書かれたノートを差し出した。私はそのノートに目を通して、身体を震わせた。そこには私、さらには、他の社員の誰も思いつかなかった新製品の説明がびっしりと書かれていたのだ。
私は一目見て、もしこのアイディアを明日の会議で発表すれば、傾きかけた会社の経営を回復させる、起死回生の企画として採用されることは間違いないと直感した。
「お前すごいな。これはいけるよ」
私は煙草を灰皿に押しつけた。
「それが採用されたら、プロジェクトチームが組まれるだろうから、お前も入れてもらえるように頼むつもりだけど、どうだ?」
高瀬は私の耳元で囁いた。
「もちろん、やらせてもらうよ。僕たちだけでプロジェクトを立ち上げるなんて、入社した当時を思うと、夢のようだな」
私は有頂天になって、にやけたまま煙草を吸い続けた。それからしばらくして仕事に戻ったが、毎日の単調なルーティンワークから抜け出せると思うと、うれしくなって、その日の仕事はほとんど手につかなかった。
次の日、会社に来ると、高瀬が風邪で休みだということが分かった。
あいつが来ないと企画会議で他の人間のアイディアが採用されてしまうだろう。そうなったら、二人でプロジェクトを立ち上げるという夢も終わってしまう。
焦った俺は、高瀬の代わりにあいつのアイディアを発表しようと考えた。発表したあと、実は高瀬が考えたんだと言えば、それですむ話だろうと思ったのだ。
私は高瀬の席からノートを盗み出すと、会議の席で、堂々と高瀬の企画を発表した。前日に内容を聞いて、頭の中で整理していたせいか、自分で考えたアイディアであるかのようにスムーズに説明することができた。
参加者たちの反応も上々で、プロジョクトを組んですぐに取りかかろうという話になった。
そこまでは良かったが、問題は私がその場でいい企画だと誉められたのがうれしくて、高瀬のアイディアだということを言いそびれてしまったことだった。
会議が終わると、さっそく企画部長から、君にはプロジェクトのリーダーとしてがんばってもらうからと肩を叩かれ、今更自分が考えたことではない、などと言うことができなくなった。そのとき急に、自分は何ていうとんでもないことをしてしまったんだ、と後ろめたい気持ちが生まれた。
高瀬にはどう説明したらいいのだろう。自分の虚栄心を満たすためだけにアイディアを盗んでしまった。とでも言えばいいというのか。たとえこの先この企画がうまくいったとしても、高瀬は私の行為を許してはくれないだろう。
このアイディアを考えつくまで、彼がどれほどの努力をしたのか検討もつかなかった。毎日徹夜で考えていたのかもしれない。私がパチンコや居酒屋で楽しんでいるときにも、彼は独り孤独に、アイディアを捻っていたのかもしれない。私は何の苦労もしないまま、いい思いだけをしようとしたのだ。
高瀬は風邪がよっぽどひどいのか、次の日も会社を休んだ。あいつに会議のことを言わなくてすんだとほっとしたが、すぐ、明日には言わなくてはいけないことを思い憂鬱になった。気が重く、何もしないまま席に座っていると、電話が掛かってきて、プロジェクトのメンバーが決まったとの連絡があった。
そのメンバーに高瀬の名前はなかった。私は、高瀬と一緒にプロジェクトをやりたいと進言したのだが、思い通りにはならなかった。ますます高瀬に言いにくくなったと、頭を抱えたが、もうどうすることもできなくなっていた。
私は次の日から会社を無断欠勤した。
高瀬に会わせる顔がなかったし、自分のやったことを思い返すと、恥ずかしくて外に出ることもできなかったのだ。
会社から電話が掛かってくるのが嫌で、コードを抜き、数日中に引っ越しできるように手配した。一刻も早くここから抜け出したかったのだ。
私はとりあえず、近いところを選び、千葉へと引っ越しをした。幸いなことに独り身だった私は、割と自由に動くことができた。
引っ越しを完了させ落ち着いた頃から、小説を書き始めた。会社での出来事を忘れて、新しいことを始めたいと思っていた私には、集中できる小説がもってこいだったのだ。学生時代から趣味で書きためていた作品を手直ししたり、新しい作品を書いたりして、いくつかの出版社の新人賞に応募してみた。職を失ったことで、学生時代に諦めたはずの作家になるという夢が、また沸き上がっていた。
友達を裏切り、会社を逃げ出した私だったが、小説に関しては積極的だった。会社働きである程度の蓄えがあった私は、毎日一心不乱に作品を書いた。夜中眠くなると寝てしまわないように、立ったままペンを握った。最近はワープロを使うのが一般的であるようだが、私にはなじめず、ペンを使っていたため、右手のペンだこに悩まされた。
そんなある日、買い物から帰ると、ポストに封筒が入っていた。開けてみると、ある出版社の新人賞受賞の知らせだった。
やった、とその場で声を上げ、部屋で何度も手紙を読んだ。間違いなく、受賞したのだ。誰の力も借りず、自分の力だけで結果を出せたことがうれしかった。会社を辞めて二年が経とうとしていたが、高瀬の顔を思い浮かべない日はなかった。今頃あいつはどうしているのだろうか、とふと思うのだった。
新人賞を受賞した喜びも手伝ってか、もう少し静かで集中できる場所へ引っ越しをしようと考えた。場所はどこでもよかったので、壁に日本地図を貼ると、ダーツを投げた。当たった場所に一番近い、村に引っ越そうとしたのだ。そして、当たったのが三重県の鈴鹿山脈に近い、洞江村だった。
木造の建物は、強い地震に耐えられるか不安を感じさせた。階段に足を掛けたとき、近くの部屋のドアが開いた。
私はそのきしんだ音が不気味で、身を凍らせた。この村に来てまだ誰とも会話していなかったため、どんな人が住んでいるのだろうかと思いを巡らせ、必要以上に緊張していたからかもしれない。
部屋から出てきたのは男性で、しっかりと髪型を整え、優しい目をした好感の持てるタイプだった。年は自分と同じくらいだろう。皺のないスーツは男の几帳面さを表していた。 この村に住んでいるのは農家の人間ばかりだ、と思い込んでいた私は、目の前の人間の都会的な雰囲気に戸惑いを感じた。
「あなた引っ越してきた人?」
と眼鏡に手をやりながら、軽い口調で話し掛けてきた。
「ええ、遠藤といいます。部屋は二階の二◎一号室です。よろしく」
「見た感じ、都会からやってきたようですが、違いますかな?」
「どうして分かりました?」
「簡単なことですよ。田舎の人間は一人で、さらに田舎の村に引っ越したりしないものです。ということは、ここに引っ越してくるのは都会の生活に疲れた人間だけです。つまり、この村に来る人間は全員が都会から来るってことです」
「なんだ。あなたはそうやって、引っ越してくる人みんなを、からかっているんですね」
私は急にリラックスして、笑顔で言った。眼鏡の奧の目はひょっとしたら人の心を読むことができるのではないか、と思わせるほどの迫力があったが、やはりそれは間違いだった。
「ばれましたか」
照れたように頭に手をやり、
「私は渡辺といいます。この坂の下で診療所を開いていますので、体調が悪くなったりしたら、いつでも来てください」
「お医者さんでしたか。あまりお世話にはなりたくありませんが、もしものときにはよろしくお願いします」
かしこまってお辞儀した。医者とか警官と聞くと、突然体がかたくなるのは昔からの癖だった。
「もう昼ですけど、食事は済みましたか?」
「いえ、今着いたところで、まだ何も食べていないんです」
「じゃあ、ちょっと待っていてください」
渡辺は部屋に駆け込み、しばらくすると戻ってきた。
「これ、おにぎりなんですけど、作り過ぎまして。よかったら食べてください」
アルミフォイルに包まれたおにぎりを手渡してくれた。腹の減っていた私は唾を飲み込んだ。
「ありがとうございます」
「あっ、午後の診療が始まりますので、私はこれで」
そう言うと傘を片手に走っていった。
腕時計を見ると一時になるところだった。
「もうこんな時間だったのか」
先生におにぎりをもらい、田舎の暖かさに触れた気がした私は、ここに住んだら自分の汚い心も洗われて、清らかさを取り戻すかもしれないな、などと考えていた。
自分の部屋に入って、何か飲み物も欲しいなと思ったとき、ふとコンビニが頭に浮かんだ。しかし、こんな場所にはあるわけないなと溜息をついた。
しかたなしに、飲み物なしでおにぎりにかぶりつくと、中の漬け物の味が少し苦く感じられた。これが田舎の味なのだと妙に納得した。
次の日渡辺に、おいしかったとお礼を言うと、それがうれしかったのか、その後も週に一回はおにぎりを作ってくれた。料理をするのが面倒だった私にはありがたいことだった。
一週間もすると、だいたい村の雰囲気にも慣れてきた。不便な面も多かったが、それを楽しむ余裕も生まれていた。このアパートの部屋数は十部屋だが、住んでいるのは私と先生だけだった。それを知ったときには驚いたがすぐに、それはそれで気を使う相手がいなくて気楽でいいなと思い始めた。
部屋は六畳一間で、風呂は付いているが便所は共同だった。といっても、一階と二階、それぞれに設置されているため一人で占有しているも同然だった。
先生もよくこんなアパートで我慢しているな、と感心する。よっぽど、愛着があるのだろう。
創作活動の方はというと、思っていた以上に不調だった。受賞後第一作を書いてくれと頼まれて、受賞作以上の作品を書かないと納得してもらえないだろう、とこの上ないプレッシャーを感じていたのが原因かもしれない。
いいストーリーが思い浮かばず、全作をはるかに下回る評価しか得られない、と自分でも分かる程度の作品しか書くことができなかった。
白紙の原稿用紙を前に時間だけが過ぎていった。
落ち着ける所に引っ越してきても無駄だったと、窓の外の自然味溢れる景色を見る度にそう思った。近くを散歩しているとよく見かける、狸やウサギといった小動物とのふれあいも、作品のインスピレーションを得る手助けには、なってくれなかった。
うまくいかないときは全てがうまくいかないもので、私の体に思ってもみなかった異変が突然やってきた。
ある日、トイレで用を足して部屋に戻ろうとすると、急に胸が苦しくなり、その場に座り込んだ。体が痙攣し、手や額には油汗が噴き出してきた。声を出すこともできない。
私は息を整えようと大きく息を吸い込んだが、肺が震えてうまく息が入ってこない。やっとの思いで階段までたどり着くと転がるように降りていった。
一番下まで行くと、そこで力つき、少しも動くことができなくなってしまった。
こんなところで死ぬのか。
そう思ったとき、遠くで声が聞こえた。
「遠藤君、大丈夫か?」
渡辺だった。
「あ、あ……」
私は喉を震わせたが、言葉が出なかった。
「少し我慢しろ、俺の診療所まで運んでやる」
そう言いながら、渡辺は私を担いだ。彼は見た目よりも筋肉質で、力強く坂を駆け下りた。安心した私は、その途中で気を失った。
消毒液の臭いで目を覚ました。鼻から入った刺激臭は、一瞬のうちに全身を駆けめぐっていった。病院独特の雰囲気だった。
「ここは?」
近くにいた白衣の人物に話し掛けた。体が浮いているように感じた。
「やっと気が付きましたか」
振り返ったのは渡辺だった。
「一時はどうなるかと思いましたよ」
私はやっと、アパートで倒れ、渡辺に運んでもらったことを思い出した。
「本当にありがとうございました。何てお礼を言ったらいいのか」
「とんでもない。困ったときはお互い様ですよ」
我に返ってみると、どうして急に胸が苦しくなったのか不思議だった。これまで何年も、風邪を引いたことも体調を崩したこともなかったのだ。
そうは言っても、この一年余りは徹夜したり、何も食べなかった日もあったりと、体に悪い不規則な生活をしていた。疲れがたまっていたのだろう。もう若くはないということだ。
「ところで、私は何かの病気なんでしょうか?」
渡辺は一瞬、怯んだような目で私を見たがすぐ、とりつくろうように笑顔を作った。
「まあ、そんなに気にすることはありませんよ」
明らかに不自然な口調だった。渡辺は嘘のつけない男らしい。
私は自分が重い病気にかかってしまっているのかもしれない、と不安になったが、これ以上渡辺を問いつめることはしなかった。
もし、本当に不治の病にでもかかっていたら、明日から生きていく自信がないのだ。もうどうでもいいと自暴自棄になってしまう気がした。とりあえずは、渡辺の気にすることはないという言葉を、無理矢理にでも信じたかったのだ。
「体調もよくなったみたいだし、仕事がありますので、そろそろ帰らせてもらいますね」
ベッドから降りると、渡辺が言った。
「今晩暇ですか?」
「今日ですか? 別に予定は何もありませんけど、どこか飲みでも行きますか?」
「いえ、違うんです。珍しい電車が走るんで乗ってみませんか?」
渡辺の口から、列車という言葉が飛び出すことは意外だった。
「私は鉄道マニアではありませんから、珍しい電車に乗れると言われても、あまり興味は持てませんよ」
私の言葉など無視して渡辺は話した。
「ここに乗車券が一枚あります」
「だから、私は……」
「これを持って今晩零時。この診療所の裏山にある駅で、電車を待ってください。黒い電車が来ますから、それで楽しい旅ができますよ」
「零時って、そんな遅い時間に、電車なんて走っていましたっけ?」
最終電車を、午後七時だと記憶していた私は、疑問を口にした。
「もちろん走っていますよ」
自信満々の口調に、何も言い返せなくなった。しかも、この裏山に駅があるなんていうことも知らなかった。もし、そこを電車が走っているのなら、アパートの窓から見えるはずだが、一度も見たことがなかった。
「あなたはお疲れのようです。それが治療だと思って、息抜きがてら、電車の旅を楽しんできてください。一時間もあれば戻って来れますよ」
渡辺の話を聞いていると、次第に電車に乗りたくなってくるから不思議だった。心の奥では、本当にあんな山の中を列車が走っているのか、と疑っているのに、表の感情では、電車の時刻が待ち遠しくなってきた。
「分かりました。でも、乗車券は一枚しかないんですよね。渡辺先生は乗らなくてもいいんですか?」
「私は一度乗りましたから、今回はあなたにお譲りしますよ」
そう優しい口調で言われ、断る理由を失った。
帰り際に、しっかり食事をしてくださいと、いつものおにぎりを渡してくれた。それをありがたく受け取った私は、小さな乗車券を眺めながらアパートに帰った。
目覚まし時計の音で飛び起きた。跳ね上がった心臓がおさまるのを待ってから、外に出られる服装に着替えた。
診療所から帰った私は、疲れからか睡魔に襲われ、夜十一時半に起きられるよう目覚ましをセットして眠ったのだった。
外の風は都会とは比べものにならないほど冷たく、あっという間に体温を奪っていった。ビルなどの遮るものがない場所では、風もその力を存分に発揮している。
私は背中を丸めて、自分の爪先を眺めながら坂を下った。
途中、裏山に入る道で立ち止まった。真っ暗なその道に入っていくことがためらわれたのだ。闇の向こうから、風とも動物とも取れるような物音が聞こえてくる。
「しょうがない。行くだけ行って、駅がなかったら戻ってくるか」
そう考えて足を踏み出した。初めて通る道をライトで照らしながら、ゆっくりと進んだ。ぬかるんだ道が足の力を奪い、引き返したい気持ちを増幅させた。
今にも消えそうな弱い光が見えたのは、きびすを返そうと立ち止まったときだった。
「何だあれは」
好奇心にかられ近寄った私は、思わず声を出した。その灯りの元には絶対にないと思っていた駅があったのだ。プラットホームだけという簡単な造りだったが、ちゃんと改札口があった。しかし、人は誰もいない。
私は、迷わずプラットホームに立った。見下ろす線路は、たった一つの電灯に照らされ、怪しく浮かび上がっていた。表面は錆び付き、とても電車がいつも走っているとは思えなかった。
果たして電車は来るのだろうか?
そんな不安が頭をもたげる。腕時計で時間を確認すると、零時一分前だった。
「もうそろそろ電車の来る時間だ」
耳をこらしてみても、聞こえるのは風にそよぐ木々の音だけだった。再び時計を見ると、零時を過ぎていた。
闇の向こうから、風とも動物とも取れるような物音が聞こえてくるだけだった。
「やっぱり、来なかったか」
こんな寒い場所からは一刻も早く立ち去ろうと、来た道を戻り始めた。来るときと違って帰りのことを考えると、アパートまでの道のりが果てしなく長く感じられた。
重い足を引きずってホームを降りると、闇の奧から金属音が聞こえた。
空耳かと思いながら立ち止まると、その音は次第に大きくなった。
音の正体が、線路を走る電車の音だと気が付いたときには、私は再びプラットホームへと走っていた。
「嘘だろ......」
木々の間から真っ黒な車体の電車が現われた。二両だけの電車だ。ブレーキがかかり、鼓膜が破れそうなくらい高い音を発した。私はホームの端で耳を塞いだ。
電車が止まると、運転席から制服を着た背の低い、無表情な小太りの男が降りてきた。鼻が大きく目と口が小さいので、浮世絵の役者顔のように見えた。
「あなたが乗客ですか?」
どうやら車掌らしい。
「ええ、列車を待つように言われまして」
「お待たせして申し訳ありません。すぐ出発しますので乗ってください」
私が入り口へと向かうのを呼び止めた。
「すいませんが、乗車券を拝見させてもらえますか?」
私はコートに手を突っ込むと、無造作に乗車券を取り出した。
「これでいいんですか?」
男は短い指で掴むと、
「お客様はすでに一名乗っておられます。隣にお座りください」
「えっ、隣に?」
わざわざ隣に座らなくてはいけない理由が分からず、問いかけた。しかし、男は無表情なまま、
「そういう規則になっていますから」と言った。
「ちょ、ちょっと……」
運転席へと向かう男を呼び止めるように言ったが、振り向いてもくれなかった。
「仕方がない。言われたとおりにするか」
そう呟いて、恐る恐る列車に乗り込んだ。座席はベンチシートになっていて、二人が隣り合わせに座ると、肩が触れ合うくらいの広さしかなかった。一両に、二十人は乗れそうな席数だった。
私はどんな人物が乗っているのかと思いながら、一つ一つ座席を確認していった。五番目の座席に男が座っていた。
「どうも、こんばんは」
私は緊張を悟られないように、できるだけ元気に言った。男は何も言わないで、軽く会釈しただけだった。
男はTシャツ姿で、僧侶のように頭をきれいに剃り上げている。どちらかといえば痩せ型だが、胸板は厚く、手足の筋肉も引き締まっていた。寒くないのだろうかという心配は無用らしい。
車輪の音を響かせ、列車は出発した。その途端、激しく体が揺らされた。感じ慣れない振動が脊髄を刺激し、いやが上にも緊張感が高まった。
こんな夜中にどこを目指すというのだろう。
行き先を知らないまま乗り込んでしまったことを後悔した。
窓の外には真っ暗な空間が広がっていた。室内の灯りが暗いため、普通の電車では室内の映像が窓に映って見えくい外の風景を、かろうじて見ることができた。
強い風を受けた広葉樹たちが、いってらっしゃいと手を振るように揺れていた。あとから考えると、このときすでに、それから起こる幻想的な世界の入り口に立っていたのかもしれない。
隣の男はさっきから、闇に目を向けて微動だにしない。
青年の面影が残る横顔からは、生気といったものがまったく感じられず、自殺でもしに行くような雰囲気だった。これから一時間余り、こんな張りつめた状態で、電車に乗り続けることに耐えられないと感じた私は、思い切って話し掛けてみた。
「寒いですね」
うっとしそうにこっちに顔を回した。が、何も答えてくれない。
「名前何ていうんですか?」
間があってから、
「宇田川浩一……」
低い、渋い声だった。
宇田川浩一? どこかで聞いた名前だった。しかし、考えてみても思い出せない。こんな坊主頭のいかつい体をした男に、知り合いなどはいない。
ひょっとしたら、テレビに出ている人なのかと男の顔を確認した。
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもないんです」
そう言ってから、自分の名前と職業を説明した。そのとき、ある顔が浮かんだ。
珍しい名字なので覚えていた。間違いない。一年前の夏、毎日のようにブラウン管越しに眺めた顔だった。あのときは熱中して見ていたが、髪の毛は生やしていたので、目の前の若い男が、あの人と同一人物だとは気が付かなかったのだ。
「もしかして、あなたは水泳の宇田川選手ですか?」
「ええ、まあ」
弱い声で答える。
「去年のオリンピック見てましたよ。すごい泳ぎでしたね。あれから水泳の方は……」
重要なことを思い出した。男の正体を思い出して有頂天だった私は、彼がオリンピックでしてしまった罪のことを、すっかり忘れていたのだ。私の失敗だった。
「すいません。悪気があって言ったわけではないんです。最近人と接する機会が少なくて、つい調子に乗ってしまいました」
「別に謝ってもらわなくてもいいですよ。この列車に乗っているということは、あなたにもそれ相応の理由があるのでしょうから、お互い様ですよ」
それ相応の理由とはどういうことなのだろう。私がここにいるのは、乗車券をもらったという理由だけだ。
闇夜を切り裂く列車は一直線に走り続けた。足元には重い冷たい空気が溜まり、指先の感覚を奪っていった。
私と違って積極的にこの旅に来たであろう彼なら、もしかしたら、この列車の行き先を知っているのかもしれない。
「こんな時間に出発して、この列車はいったいどこに向かって走っているんでしょうね」
宇田川は信じられないといったように私の顔をまじまじと見た。
「ひょっとして、あなたは何も知らないままこの列車に乗ったんですか?」
「そうですけど……」
「それは大変なことになりましたね」
「大変とはどういうことですか?」
「本当に何も知らないんですか?」
「はい」
「じゃあ、聞きますけど、どういう経緯で列車に乗ったんです? たまたま通りかかったというわけではないでしょう」
「私の場合はある人に乗車券をもらったからです。あまり気が進まなかったんですが、息抜きに旅でもしてみろって強く言われて、来てしまいましたよ。だからと言って、別に後悔しているということはないんですが」
「乗車券をくれた相手というのは、もしかしたら、病院の先生じゃないんですか?」
「そうですけど、どうして分かりました?」
「そりゃあ、分かりますよ。どうやら、その先生に代わって僕が説明しなくてはいけないようですね。まいったなあ」
宇田川は咳払いをして、さっと背筋を伸ばした。
「とりあえず、僕がこの列車に乗ることになった理由を話しますよ。そうしたら、あなたがここにいる理由もだんだん分かってくると思います」
少しずつ分かるということが理解できなかったが、小説家としての好奇心が、彼の話は面白そうだと訴えてきたのと、彼が私と話をしたことで少し元気を出したように思え、黙って彼の話に耳を傾けた。
彼の話は二年近く前にさかのぼった。
「あの当時、僕はオリンピックの選考会を兼ねたある競技会に向けて、猛練習をしていました。今思うと、朝から晩まで水泳のことばかりを考えて、ノイローゼ気味だったのかもしれません」
私は彼の了解を得て、メモを取りながら話を聞いた。
宇田川はその当時、大学一年生だったが高校時代からすでに頭角を現し、スター選手になっていた。高校選手権の100mフリースタイルで日本記録で優勝したときにはスポーツ新聞の一面を飾り、ニューヒーロー誕生と騒がれた。
その実績からも、オリンピック出場は確実といわれる実力の持ち主で、その甘いマスクから女性ファンも多かった。私もテレビ報道などで彼の活躍は知っていた。
オリンピック出場が夢だった宇田川の、選考会に掛ける意気込みは半端ではなく、周りの人が心配するほどに、練習にのめり込んでいた。
「もうこんな時間だ。そろそろ練習も終わりにしようぜ」
大会まであと一ヶ月となったある日、同学年の仲間である森が話し掛けた。種目は平泳ぎということで、宇田川とは違ったが、彼もまた大会で好成績を狙える有望選手だった。
「僕はまだ練習したいから先に帰ってくれていいよ」
プールの中で息を切らした宇田川が言った。
「毎日遅くまで練習しているんだろう。あんまり無理するなよ。肩でも壊しでもしたらどうしようもないから」
「無理しなくちゃいけないんだよ。僕には水泳の才能はない。才能のない奴が誰よりも速く泳ぐためには、誰よりも多くの練習をしなくてはいけない。当然のことだろ?」
「そこまでしなくても、お前は十分速いよ。何をそんなに焦っているんだ?」
「約束したんだよ」
「約束って、こないだ俺に話してくれたあの話か?」
「そう。高校のときの全国大会で出会った三人と約束したんだ。次のオリンピックは四人で出場して、メドレーリレーを組んで金メダルを取るってな」
「そんなの夢物語だよ。お前はオリンピックに出れるかもしれないけれど、他の三人は無理だよ。高校生にしては速かったかもしれないけど、オリンピック出場となるとライバルも多いし、タイム的にも厳しいだろ?」
森は日本水泳会の層の厚さを十分理解していた。高校の全国大会レベルでは、オリンピック代表に選ばれることは難しい。
「いや、僕は彼らを信じている。今度の大会、彼ら三人は必ず優勝してオリンピック出場を決めるさ。だから、僕も勝たなくてはいけないんだよ」
「分かった。分かったからそう睨むなって」
「分かったのなら、練習のじゃましないでくれるか」
「はいはい。帰りますよ。でも、お前のそういう熱いところ好きだぜ。がんばれよ」
宇田川に不幸が襲ったのはそれから数日後のことだった。
その日も彼はいつものように遅くまで大学の室内プールで練習を行っていた。
「おーい。宇田川。大変だ」
更衣室から、ジャージ姿の森が飛び出してきた。
飛び込もうとしていた宇田川は、迷惑そうな顔をした。
「何だよ。練習中はじゃまするなって言っただろ」
「違うんだ」
息を整え、
「お前の両親が交通事故にあったらしい」
「何だって? 嘘だろ」
裏返った声を出す。
「買い物に出かけた帰りだったらしい。お前の家の近くの山中総合病院ってところに救急車で運ばれたそうだ」
「様態は?」
「分からない。とにかく早く行った方がいい」
「だけど……」
もちろん両親のことは心配だったが、練習に取りつかれていた彼はすぐに返事をすることができなかった。
「お前まさかこんなときにも練習するなんて言うんじゃないだろうな。もしものことがあったら、どうするんだよ」
「分かった。行くよ」
「俺が車を出してやるから、すぐに着替えろ」
宇田川は慌てて着替えると、病院へ直行した。その途中、彼は両親の様態を心配すると同時に、何でこんな大切なときに、事故なんかを起こすんだと苛立った。
病院での両親の姿は彼の心を、闇の中へと突き落とすのに十分なほど衝撃的だった。生命維持装置に張り付けられた体には、見慣れない管が幾つも刺さり、生き物のように床を這っていた。その痛々しい光景は見る人に、もう二度と目を開けることはないのではないかという不安を与えた。
「父さんと母さんは助かるんですか?」
「今は何とも言えませんが、全力を尽くします」
「全力を尽くすだって、そんなことは誰にだって言えるんだよ。絶対に助けてやるって言えよ。なあ」
掴みかかろうとした宇田川を森が引き止めた。
「落ち着けよ。宇田川」
「す、すまん」
「とにかく今は絶対安静です。しばらく様子をみましょう」
医者は動揺を見せずにそう言った。
「よろしくお願いします」
宇田川の代わりに森が言った。
「どうしてだよ。どうしてこんなことになっちまったんだ」
宇田川は頬を流れる涙を拭うことも忘れて、ベッドに目をやった。深夜の病院に、低く唸るような機械の音だけが、耐えることなく漂い、不安を増長した。
森が帰ったあとも、宇田川はそばを離れず、からっぽの頭で一晩中泣き続けた。大声を出しても、駆け寄ってくる人も、慰めてくれる人も、文句を言う人もいない。まったくのひとりぼっちだった。
宇田川はこれほどの孤独を感じたことはなかった。水泳は孤独なスポーツだと言われるが、一旦水から上がれば仲間もいるし、見守ってくれている人もいる。だから、冷たい水の中でも、常に人の温かさを感じながら泳ぐことができるのだ。孤独さを感じることはない。
宇田川は初めて体験するこの空虚な時間をただ早く過ぎ去れと祈ることしかできなかった。しかし、眠ったままの両親は朝を迎えても目を覚まさなかった。
それでも、宇田川はもうすぐ意識を取り戻し、いつもの穏やかな笑顔を見せてくれるんだと希望を失わなかった。
その日の練習にも参加した。
「両親の具合はどうだ?」
更衣室で森が心配して訊いた。
「まだ意識がないんだ。でも、大丈夫。すぐ元気になるさ」
ひきつった笑顔を見せた。
「今日は早めに練習を切り上げて帰れよ」
「ああ、分かってる。心配かけてすまんな」
練習を始めてみても両親のことが気になって、集中することができなかった。
こうして自分がのんきに泳いでいる間にも、両親は死と戦い、苦しんでいる。側にいてやらなくていいのだろうか。
そんなことを考え始めると止まらなくなって、練習に全力を出すことができなくなった。だらだらと泳いで無駄に時間が過ぎた。
水の中という密閉された空間では、思考も閉ざされ、負の考えがどんどんと膨らんでいく。普通の状態なら、浮かんでもすぐに消えてしまうような、小さな不安も育っていく。宇田川はこのときほど、水泳というスポーツを恨んだことはなかった。
そこまで話した宇田川は、バッグからコーラを取り出し、渇いた口を潤わせた。
列車は、古い割には揺れが少なく、快適だった。
私はメモする手を止め、汗ばんだ手をジーパンで拭いた。宇田川の目線の先を追って、視線を窓の外に移すと、木々の向こうから太陽が覗いていた。眩しい光を放っている。
「あれ?」
宇田川の話に夢中になっていた私は、外が明るくなっていることにまったく気が付いていなかった。
零時に出発してまだ二十分程度しか経過していないのに日が昇るなんてあり得ない。
そう思って時計を見ると、零時七分のところで針が止まり、微妙に振動してた。
「こんなときに電池切れか」
叩いてみても動かない。自分の感覚を信じれば、電車に乗ってからまだ二十分も経過していないはずだった。窓の外には星空が見えていなければおかしいのだ。
「こんな夜中にどうして太陽が……」
ひとり言のように言った。自分の持っている時間という感覚が狂っているのか、この列車の存在が時間を狂わせているのか、はたまた、これは現実の世界ではないのか。
このときの私には、それを確かめる方法も必要もなかった。目の前の出来事を素直に受け入れ、ただ純粋にこの小旅行を楽しみたい。そう思っていた。
列車は果てしない線路の上を、一定の速度を保ったまま走り続けた。
宇田川はそれに何の疑問も抱いていない様子で、私を振り返った。
「日も昇ってきました。続きを話しましょう」
宇田川の病院通いは毎日続けられたが、一向に両親の意識が戻る兆しはなかった。大会を一週間前にして宇田川の疲労はピークに達していた。思ったようにタイムも伸びない。 これでは優勝どころか、決勝に残ることすら難しい。
そう落宇田川が落ち込んでいる中、森は好調にタイムを伸ばしていた。以前なら、仲間のがんばりを喜んだ宇田川だが、今回ばかりは、焦りと苛立ちで掛ける言葉もなかった。
「宇田川。今回の大会は棄権した方がいいんじゃないのか?」
森が真剣に言った。
「棄権だと? ふざけたことを言うな」
プールサイドに座る森を見上げて言った。
「最近、体調悪いんだろ? お前にはまだ未来があるじゃないか。今はゆっくり休養を取って次の大会を目指した方がいい。両親のこともあるし」
「お前、僕のことを馬鹿にしているのか? まだ大会まで一週間ある。それまでに体調もタイムもベストに持っていくさ」
「でも、顔色も悪いし、体重も落ちているんじゃないのか?」
「そんなことはないさ」
そうは言ってみたものの、実際はこの何週間かで十キロ近くの体重が減っていた。ベストの体重からはほど遠い。
「それならいいけど、無理はするなよ。お前はこの水泳部の宝なんだからな」
それだけ言って、森は更衣室に歩いていった。
宝か……。
「宇田川君ちょっといいかな」
振り返ると監督だった。この大学の水泳部監督を、十年以上続けているベテランだ。
「最近調子悪いみたいだけど、大丈夫?」
「ええ、まあ」
「頼りない返事だねえ。君には絶対にオリンピックに出場してもらわないと、こっちも困るんだから頼むよ」
この私立大学にスポーツ推薦で入学した宇田川は、学費が免除になる代わりに、大会での活躍が義務付けられていた。
今度の大会で無様な成績なら、学費免除はなくなるかもしれなかった。そうなったら、裕福ではない宇田川の家庭では学費が払えず、水泳の道は断念しなくてはいけなくなる。 監督の話を聞きながら、是が非でもオリンピック出場を成し遂げなくてはいけないと心に誓った。
「君のことだから間違いはないと思うけど、万が一、タイムが出せないと思ったときは、これを使ってみてくれよ」
そう言って渡されたのは、小瓶に入った白い錠剤だった。
「風邪薬ですか?」
「ははは、面白いことを言う。そんなわけないだろう。早く泳げるようになる薬だよ」
「ま、まさか。ドーピング?」
監督は小さく頷いた。
「そんなことしたらすぐばれますよ」
「それは大丈夫なんだよ。興奮剤に近い作用があるんだが、検査じゃ引っかからないようにできている」
「し、しかし……」
宇田川はそこまでしても自分は大学の広告塔に使われ、捨てられるだけだと分かっていた。大学側は、宇田川がオリンピックに出場しさえすれば、体がどうなろうと知ったことではない。
「無理にとは言わないよ。気が向いたら使ってくれ。ただし、オリンピック出場できなかったときは、この水泳部を辞めてもらうことになるかもしれないよ」
「考えておきます」
宇田川は汚い希望の入ったその瓶をしばらく見つめ続けた。
大会当日。前日までの雨も上がり、青空が広がっていた。病院に泊まった宇田川は直接会場に向かった。
両親に活躍する姿を見てもらえないことは残念だったが、二人が目を覚ましたときに、オリンピック出場が決まったと言えるようにがんばろうと気合いを入れた。
会場で懐かしい顔を見つけると、駆け寄った。高校選手権で知り合った。八代、赤坂、町の三人だ。
「よお、みんな。久しぶり」
「宇田川じゃないか。元気だったか?」
長身の八代が言う。ひょろ長い体格だが、彼の背泳ぎは綺麗なフォームで力強い。
「ちょっと痩せたんじゃないのか」
赤坂はバタフライ。筋肉質の体とはアンバランスな軟らかい体が特徴で、高校選手権ではぶっちぎりの優勝だった。
「まあな、でも、ベスト体重だよ」
「それならいいけど、俺たちの夢も忘れていないだろうな」
平泳ぎの町は四人の中では一番威勢がいい。それは泳ぎにも出ていて、彼の起こす波は隣のコースの選手にも影響を与えた。
「忘れるわけないさ。今日は僕が一番最初に優勝してやるから、みんなも負けるなよ」
「はいはい、そうですか。さすが水泳界のプリンス、言うことが違うね」
町が口を尖らす。いつものジョークだ。
「何だよ。久しぶりに会ったのにいきなり嫌味かよ」
「こいつ。今日はお前に嫌味を言うために来たらしいよ」と赤坂。
「みんな。競技前だってのに、緊張感ないねえ」
八代が呆れて溜息をつく。
宇田川はこんなありふれた、たわいもない会話を楽しんだ。これから自分が行おうとしていることを考えると不安がつのり、リラックスしたかったのだ。
監督に渡された興奮剤。これを使用すれば心臓の働きが活発になり、血圧が高くなる。
からだ全体に血液がよく流れ、血の巡りがよくなるのだ。さらには、気管支が拡張してより多くの酸素を血液に送ることができ、疲れにくくなる。
今日だけだ。今日だけ使用する。それで終わりにしよう。二度と使わない。大事なこの試合は、どんな手段を使ってでも勝たなければいけない。両親が入院するなんていうハプニングがあったんだ。神様だってきっと許してくれる。
宇田川は少しでも楽になろうと、自分を正当化する理由を頭の中に並べ立てた。それによって、少しは平常心を取り戻せたが、顔は硬直し、額からは不自然なほど大粒の汗が流れていた。
他人が見たら大丈夫かと心配されるような状態でも、今日のような大きな大会では、ただ緊張しているだけだろうと特別に気にする人はいなかった。
宇田川が、これから水泳という競技を裏切るような行為をしようとしている、などと見抜いている人物などいなかったのだ。
トイレで誰にも見られないように、宇田川は薬を飲み込んだ。喉を固い塊が通過した。
もうあとには引けない。
水をがぶ飲みして、トイレを駆け出した。角を回ったところで森にぶつかった。
「おい、どうしたんだよ。そんなに慌てて」
「何でもない。もうすぐ仲間が泳ぐから早く見に行きたかっただけだよ」
冷静さを装って答えた。
「前に言っていた高校のときの友達だな。調子は良さそうだった?」
「あまり話さなかったから分からないけど、あいつらなら大丈夫。かえって僕の方がやばいかもね」
最近の宇田川には珍しい、リラックスした笑顔を見た森は少し安心した。今日の宇田川なら、ひょっとして勝てるかもしれないと思わせた。森は宇田川の自信が、薬に由来するものだとは夢にも思っていなかった。
「森の出番ももうすぐだな。決勝に残れるくらいにはがんばれよ」
「ああ、まかせとけって」
「じゃあ、僕は行くよ」
宇田川は、あれだけ自分のことを心配してくれていた森を裏切ったことに、後ろめたい気持ちがあって、ろくに顔も見ないで話していたことに気が付いた。
振り返ると、すでに森は人混みの中に消えていた。
ごめんな森。今の僕にはこうするしか道がなかったんだ。
室内プール特有の、湿気を多く含んだ重い空気が、宇田川の体を包んでいた。
大会は滞りなく進行し、三人の旧友も水泳部の仲間たちもそれぞれ順調に決勝進出を決めていた。中でも、オリンピック出場を誓い合った三人は、高校時代よりも遙かに早なっていて、十分優勝を狙えるタイムで泳ぎきった。
やっぱり、あいつらはすごいな。今日の調子なら三人とも勝てるかもしれない。僕もがんばらないと。
宇田川は準備運動をしながら出番を待った。スタート台に立ったときには気持ちも体も全開で、スタートの合図と同時に真っ先に飛び込んだ。
体が軽く、疲れも感じなかった宇田川は、それまでのスランプが嘘のような力泳を見せた。プールの水が後ろから押してくれているような錯覚をいだくくらいに、完璧な泳ぎだった。そして、ゴールしたときには会場が沸き上がった。100m自由形日本新記録、50秒12、で予選一着だった。
やった。やったぞ。
オリンピック出場権を獲得したも同然の宇田川は喜びを隠そうともしないでプールの中で飛び回った。
宇田川は予選での好調さを持続して決勝でも再度、日本記録を塗り替えて優勝した。
予選のときよりも緊張感が抜け、力まないで泳げたことが好タイムにつながった。友人たちのがんばりも彼を奮起させた。
ゴール直後、体は熱くて茹で上がりそうなのに、震えが襲った。宇田川は、喜びで打ち震えるというのは、こういうことを言うのかと他人事のように感じた。
叶わぬ夢だと思っていたオリンピックに出場できる。
注意されるかもしれないと思いながらも、プールサイドを全力で走った。宇田川よりも一足先に優勝し、オリンピックの出場を決めていた高校時代の友人三人と、喜びを分かち合いたかったのだ。
彼らは全員が別々の大学に進んでも、思いは一つだった。一人一人が誰よりも努力した。誰一人諦めなかった。それは結果を見れば明らかだった。
宇田川にはそれがうれしかった。
「みんな。勝ったぞ」
宇田川がそう言いながら走り寄っていったときの三人は、戦い終わった戦士のごとく、すがすがしい笑顔を見せた。
「やったな。日本記録だなんてまいった。見てたら鳥肌が立ったよ」
町が背中を叩く。
「お前はともかく、俺たち四人とも代表になれるなんて、信じられないな」と八代。
「何だ、何だ。八代は俺たちの実力を、信じていなかったのか?」
不満げに赤坂が言う。
「だって、高校時代のタイムからは考えられないだろう。みんな二秒近く縮めているんだぜ。200mならともかく、100mでこれだけ早くなるなんてすごいよ」
「俺は、かなり筋力アップしたからな」
赤坂が力こぶを見せる。
「それだけ、みんなが練習をがんばったってことか」と町。
「俺だけ勝って目立とうと思ったのに、残念だぜ」
「赤坂は目立つことしか考えてないのかよ。せっかく、みんなでオリンピックに出れるっていうのに」
「嘘だって。俺も本当はうれしいさ。さあ、四人で円陣だ」
赤坂の勢いに押され、宇田川たちは苦笑いをしながら肩を組み、草野球のような円陣を作った。
「次はオリンピックだ。ファイトー」
赤坂の声が響きわたる。それに答えて、三人も
「おー」
と、より大きな声を出した。
宇田川は声と一緒に、これまでの苦労や嫌なことを、すべて吹き飛ばしてしまったのか、希望に満ち溢れた未来だけを想像していた。しかし、その空想も八代の一言で砕け散った。「みんなあとは検査だけだろ。終わったら食事に行こうよ。久しぶりなんだしさ」
そうだ。検査があった。ドーピング検査。
宇田川の表情は一瞬で固まった。コーチは検査では引っかからないと言っていたけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
ドーピング検査も年々改良されている。少し前までは大丈夫だったから、今も大丈夫だという保証はない。
心臓が異常なほど騒ぎ出した。
宇田川は、許されない不正をしておいて自分勝手だと思いながらも、見つかりませんようにと神に祈った。世の中は優しい世界だ。不幸が訪れた人間は、少々の悪さをしても神様に見逃してもらえる。努力していた自分を神様は見てくれているはずだ。だから、きっと不正は発覚しない。宇田川にはそう信じるしかなかった。
「どうしたんだ宇田川。急に黙り込んで」
八代に言われて、はっと顔を上げた。
「何でもない。ちょっと両親のことを思い出しただけだよ」
咄嗟に出た嘘だった。両親のことなど頭になかった。
「そうか」
宇田川は、両親の事故のことを三人に話していたため、誰も疑問に思う奴はいなかった。
両親が元気だったら、今頃は大はしゃぎだったに違いない。宇田川のがんばりを、一番分かっているのは両親だったし、努力が報われて欲しいと人一倍願っていたのも両親だった。
「両親にちゃんと報告できるといいな」
肩に乗せた町の手は、母の手のような温もりがあった。
列車は森を抜けた。田園風景が地平線まで続いている。近くの田では、古びた服を着せられた案山子が、不満そうな顔で、乾いた土の中に刺さっている。その影の先には、仲間からはぐれたカラスが、暇そうに土をついばんでいた。時折見える木造建築の民家には、人気がなく、もの悲しい雰囲気が漂っていた。
宇田川の顔は、太陽の光を浴び続けているせいか、火照っているように見えた。
オリンピック出場を決めたときのエピソードを、真剣に語った彼の心境はどうなんだろうか。初対面の男に話すんじゃなかった、と後悔しているのではないのだろうか。それとも、オリンピックのあと、マスコミに散々な報道をされ、人間不信に陥っていたであろう彼は、過去の出来事を他人に話すことを、新鮮に感じていてくれるのかもしれないとも思えた。
宇田川は再びコーラを口にして、静かに溜息をついた。コーラの小さな泡のように、浮かんでは消えてゆく過去の記憶は、彼の頭の中でどう整理されているのだろうか。
一定のリズムを刻む車輪の音が益々大きくなって、私の腹に響いてきた。
「こうして田舎の村を見ていると、小学生の頃を思い出します」
宇田川が言った。
「そうですね」
「実は、僕は小学四年生まで泳げなかったんですよ。クラスで一人だけでした」
「あなたが?」
「夏になって、一人だけ泳げなかった僕を、担任の先生がみかねて、毎日、学校の授業が終わったあとに、泳ぎを教えてくれたんですよ。あの先生がいなかったら、一生泳げないままだったかもしれない」
「熱心な方だったんですね。普通だったらそこまではしないだろうに。あなたのオリンピック出場も喜んでくれたでしょう」
「分かりません。自分勝手なもので、中学、高校へと進む間にあの先生の名前も顔も忘れてしまいました。今思えば、泳げるようになったことを、純粋に喜んでいたあの頃が一番水泳に対して愛があったのかもしれません。学年が進むに連れて、タイムだけにこだわるようになり、人より早く泳ぐことだけを考えるようになっていました。子供の頃あった純粋さは、水が氷や蒸気へと姿を変えるように、虚栄心やプライドに変わっていったんです。それとともに、先生の顔も記憶から消えていきました。僕の最も純粋な部分は、先生の記憶ととも失われたんです」
「……」
私は思い出していた。知らないことを知ったときの喜びを、できなかったことを初めてできたときの嬉しさを、純粋に楽しんでいた小学生の頃を。
いつからか、新しいことを覚えるのを面倒くさく思い、努力することを忘れ、自分には能力がないからだといい訳してきた日々。そして、ついには他人のアイディアを盗んでしまった。
宇田川にとって水泳を教えてくれた先生は、自分の純粋さの象徴だ。彼も私と同じように、昔の自分を取り戻したいと思っているのだろうか? 名前も顔も忘れてしまった先生にもう一度会うことができたら、純粋さを取り戻せるという幻想を抱いているのだろうか。
「話が横道に逸れましたね。続きを話しましょう」
ドーピング検査の時間は四人ともバラバラだったため、宇田川は一人で順番を待っていた。一人になってから、言い表せないような不安感が、雨雲のように宇田川の心を覆っていた。
宇田川にとって、検査結果なんていうのはいつもなら気にもしないことだったが、今日の彼は、犯罪を犯して裁判にかけられた罪人のような気持ちで、その結果を待たなければいけなかった。
それだけに、検査に引っかからなかったときの安堵感は大きかった。宇田川は結果を聞いた途端に、全身の力が抜け、応援席でただの肉の塊のようになって座っていた。
検査には引っかからなかったが、彼の心には重りのように引っかかる何かがあった。
「日本新記録、おめでとう」
見上げると森が、握手を求めて立っていた。宇田川は、
「ありがとう」
と言って差し出された手を握った。
「どうしたんだよ。震えてるじゃないか」
「日本新記録だなんていうのが信じられなくてな。まだ緊張しているんだ」
間違っても、ドーピング検査が陰性で、ほっとして震えているとは言えなかった。
「こないだは、大会を棄権した方がいいなんて言ってごめんな。俺が間違っていたよ。お前は体調を万全にして、大会を迎えたし、記録も出した。出場しても恥をかくだけだ、なんて言った自分が恥ずかしいよ」
宇田川は、恥ずかしいまねをしているのは自分だと心で呟いた。
「僕のことを思って言ってくれたんだから、気にしてないよ。それより、森も四位だなんて惜しかったな。もうちょっとで表彰台だったのに」
「次の大会でがんばるよ。俺はまだまだこれからだ。そういえばさあ、ここだけの話なんだけど」
森は思ってもない話を切りだした。
「数週間前、監督にドーピングしないかって言われたよ」
「えっ、まさか」
宇田川の顔の血の気が、さっと引いていった。
もしかして、森もドーピングを?
「もちろんやってないけどさあ。宇田川みたいに、オリンピック出場できるくらいの実績のある一流選手はいいけど、俺みたいな二流選手が勝ちたかったら、薬を使えってさ。ばかにしてるだろ」
「ああ」
宇田川は、震える声を必死に隠した。正直、森が薬を使ってなくて安心した。
「水泳っていう競技を侮辱するようなこと、できるわけがないよな。勝ってもうれしくも何ともないっていうの。まったく、あれでよく監督を何年もやってるよな」
と吐き捨てる。
「聞いてるのか?」
「あ、ああ、聞いてるよ。お前に言う通り、選手にドーピングを薦めるなんて異常だな」
心ここにあらずといった様子で話す宇田川の胸には、森の薬で勝ってもうれしくないという言葉が、Tシャツの黄ばみのように染み込んだ。
宇田川は約束した三人と食事に行った。オリンピック出場を決めたときの喜びは、すっかり消え去り、食事中も笑顔を見せることはなかった。
会話にもあまり参加しないで、自分には本当にオリンピックに出る資格があるのだろうかと、自問自答を繰り返すだけだった。そんな宇田川を見ても、他の三人は両親のことで心を痛めているんだと同情するだけだった。
何度か自分のしたことを、告白しようとした宇田川だったが、彼らが心配そうに向ける目を見ると、友情を失いたくない気持ちが優先して、何も口に出すことができなかった。
薬を使ったなどということを言ったら、二度と彼らの仲間には入れなくなる。
宇田川は愛想笑いだけを浮かべ、酔っぱらうまでカクテルを飲んだ。
宇田川は酔いがさめる前に病院に着いた。静かに階段を上がり、病室へと向かっていると、夜中だというのに、看護婦が足音を響かせて走ってきた。
宇田川は何かあったのかなと思ったが、ちらりと見る程度で、気にはしなかった。しかし、看護婦は宇田川の目の前で止まると、息を荒げて、
「宇田川さん、お母様の意識が戻りましたよ」
一瞬聞き間違いかと思って聞き返す。
「えっ、本当ですか?」
酔いが吹っ飛んで、全身がざわついた。
急いで病室へと駆け込むと、見慣れたベッドに両親がいつもの様子で寝ていた。しかし、よく見ると、決して開くことはないかもしれないと思い始めていた母の眼が開いて、心を和ませる笑顔を、宇田川に向けていた。その瞳は、蛍光灯の光を受けて、眩しいくらいの光を放っていた。
このときを、どれだけ待っていただろう。
宇田川は母の手を取った。皺の増えた手はごわごわして冷たかった。
「母さん。よかった……」
心からそう感じた。両親が事故にあったと初めて聞いたとき、何でこんなときに事故なんかを起こすんだと呪ったから、目を覚ましてくれないんだと、自分を責め続けていた。苦しみからやっと開放された。素直な感想だった。
「心配かけたわね」
「うん。でも、まだ父さんが」
「そうね。でも、もうすぐ目を覚ますわ。だってあんたの父親よ。強いんだから」
「うん」
「ところで、もうそろそろ大会じゃなかったの? 練習は大丈夫なの?」
「大会は今日終わったんだ。もちろんオリンピック出場を決めたよ」
「がんばってたものね。報われてよかったじゃない。でも、見に行けなかったのが残念だわ」
「オリンピックは見に来てよ。もちろん父さんと二人でね。きっとまた活躍するからさ」
「必ず行くわ。いい泳ぎを見せてね」
宇田川は人との会話で、こんなにうれしいと感じたことはなかった。一言一言を噛みしめるように聞いた。一生忘れないように、心に刻みつけた。しかし、その一方で、肉親をも騙してしまっている自分が醜くて、薬を使ってしまったことを、強く後悔していた。
どこで道を間違えてしまったんだろう。
悩んでみても、もうすでに後戻りするすべはなかった。
選考レースからオリンピック本番までは半年の期間があった。
宇田川の母は、日増しに元気を取り戻した。宇田川は練習を終えてからの母との会話を楽しみに、練習に励んだ。父の様態は、宇田川の祈りも通じることなく、時間が経過するに連れて悪化した。そしてついには、意識を取り戻すことなく息を引き取った。事故から三ヶ月、静かな最期だった。
宇田川は、父の命の灯火が消える瞬間を、母と見守った。
「父さん。僕は……」
オリンピック出場の喜びを伝えることができなかった宇田川は、もう二度と口を開くことのない父を前に、父と話ができなかったのは、薬を使ったことの報いなのか、と言葉にならない叫び声を上げた。そして、これから先、どんなことがあろうとも、薬を頼りにしない信念を心に刻んだ。
どんなに辛いことがあっても、涙を見せたことのなかった宇田川の母も、今回ばかりは人目をはばからず、泣き続けた。
宇田川は、天国の父に恥ずかしくないレースを見せるために、弱い心の持ち主だった自分を変えるために、今まで以上の過酷な練習をした。
練習が終わり、プールから出ても更衣室まで歩く力が残っていなくて、そのままプールサイドで仮眠することも珍しくなかった。そんなとき、部活の仲間はそっとタオルをかけてくれた。
宇田川にはもう、選考レースのときのような心の迷いはなかった。
「調子いいみたいだね」
森だった。練習前のプールサイド。
「いままで、こんなに調子がいいことはなかったよ。まるで、背中に羽が生えて飛んでいるかのように、水の中を進んでいけるんだ」
宇田川には、ある誓いがあった。薬を使って出した日本記録。オリンピックの本番で、その記録を破ることだった。違反をしてオリンピックに出場する以上、それは必ず達成しなくてはいけない義務だと感じていた。
「日本新記録って言ったって、まだまだ世界レベルでは通用しないだろう。お前ならもっと上を狙えるんだから、がんばれよ」
自分でも分かっていた。たとえオリンピックで日本新を出したとしても、決勝のレースに残ることも難しい。それほどに、世界のレベルは高いのだ。100mという短距離、特に自由形ではどうしても、体格に勝る外国人勢に、パワー負けしてしまう。だから、それを補っても余るくらいの、泳ぎのテクニックが要求された。女性選手並の体の柔らかさを手に入れ、無駄なく水をかく。
宇田川はメドレーリレーでメダルを取るためには、自分が足を引っ張らないように、僅かでもタイムを縮めようと必死だった。タイムだけを考えれば、四人の中で一番世界と差があるのは自分なのだと。
日本ではオリンピックイヤーの夏は不思議なことに、毎回猛暑だ。今回も熱射病が社会問題になるほど暑さの厳しい夏だった。そんな中、もっと熱い戦いが、アテネを舞台に始まった。二週間という短い間に、選手たちはメダルという一生消えることのない成果を得ようと実力を出し切って勝負する。そこに数多くの感動が生まれる。
宇田川は代表選手用に用意されたプールで、最後の調整を行った。メドレーを組むことになった三人も、緊張のためか少し力が入っているようだった。
順調な調整を続け、好調を維持していた宇田川も、個人レースの前日には緊張して眠れずにいた。八代は決勝には進出できなかったものの、タイム的には十位の好タイム。赤坂は決勝に残り、六位入賞を果たした。町も決勝に残り、赤坂と同じ六位だった。
去年まで幼さを残していた彼らは、世界と戦えるだけの実力と貫禄を身につけてきた。 ベッドに横になったまま天井を見上げて考えた。
ついにこの日がきた。今の自分の力だけで、どれだけやれるだろう
いつの間にか眠って、朝を迎えた。
宇田川は予選のスタート台に立ったとき、足の震えが止まらなかった。前回のレースでは薬を使ってレースに望んだ。しかし、今回信じられるのは自分の練習量だけ。
本当に、前回のタイムを上回ることができるのだろうか。
この場になって突然、宇田川には恐怖心にも近い、不安が押し寄せていた。大歓声の中、宇田川は大きく深呼吸したあと、スタンドで応援してくれている母や仲間に手を振った。そうしたら、体のスイッチが入ったように集中力が高まった。周りの雑音が消え去り、スタートの合図だけが耳に届いた。
着水した瞬間、火照った体は冷やされたが、すぐにまた熱くなった。見えてくるのは水しぶきで滲んだ映像。意識しないでも、体が練習で繰り返した動きを勝手にしていく。
50mのターン。疲れは感じない。息をする度に聞こえてくる声が力をくれた。独りじゃない喜び、全力で泳げる喜び、それを思ったら涙がこみ上げ、水中眼鏡を曇らせた。
ゴールしてすぐ、水中眼鏡を剥ぎ取って電光掲示板を見る。
タイムは?
50秒00。日本新。
全身に震えが走る。
できた。タイムを出すことができた。
宇田川は決勝レースには残れなかったが、それまで抱えていた重い荷物を下ろしたような、晴れ晴れとした笑顔で、日本からの報道陣のインタビューを受けた。薬の力を使うことなく、選考レースのタイムを破ったことは、彼の失っていた自信を取り戻し、水泳選手として大きく成長させたようだった。宇田川の母は、何度も確かめるように首を縦に振りながら、息子の勇姿を見守った。
メドレーリレーでは、宇田川たちは予選レースを四位のタイムで通過し、決勝進出を決めた。決勝本番前には、また違った緊張があった。オリンピックでは四人とも好調で、宇田川にも何の問題もないはずだったが、今度は応援してくれている人たちを裏切ることができない、というプレッシャーが、じわじわと彼の首を締め付けていたのだ。
「ついに、決勝レースだね」
本番直前の控え室で、隣に座った八代が言った。
「そうだね」
声を震わせる宇田川に、
「緊張しているなんて、らしくないね。アンカーなんだからどんと構えててもらわないとな」
「ごめんな。こんな経験二度とないと思うと、体がいうことをきかないんだ」
緊張で乾いた口を潤わせろと、八代は自分の飲んでいたドリンクを渡した。それを飲みながら宇田川は、これを最後のレースにしようという決意を、改めて固めた。
「さあ、そろそろ出番だな。行こうか」と町。
「あれをやらなくていいのか?」
宇田川が言う。
「あれって何だよ」
「円陣」
四人で声を上げて笑う。
「仕方がない。宇田川がやりたいんだったらやるか」
赤坂が言うと、四人で腰を下ろして肩を組んだ。
「四人で出れる最後のレースかもしれない。気合いを入れるぞ」
赤坂の声を合図に、四人声を揃えて、おう、と叫んだ。
他の国のチームは、おかしな奴らだという目で見たが、彼らは気にすることなく、モチベーションを高めた。
宇田川が話を止めたとき、列車を照らす太陽は、もう真上を越えていた。まばらな雲が、太陽をかすめていく。
私は疲れた腕を休ませて、背筋を伸ばした。
宇田川は、オリンピックではドーピングをしていなかった。目の前の彼は何かを決意したような目をして、真剣に語っている。嘘を言っていることは考えられない。しかし、宇田川は帰国後、オリンピックのレースで薬を使ったと告白している。
あれはどういうことだったのだろうか?
確かに選考レースで使用したのは事実。しかし、オリンピックでは使用していないではないか。実力で結果を出したレースで、どうして自らを否定するような真似をしたのか。水泳界を追放されることが分かっていただろうに。
疑問を打ち明けられないまま、再び鉛筆を握る指に力を入れた。
「そろそろ、僕の降りる駅かもしれない。先を急ぎましょう」
団体戦は、個人戦とはまた違った集中の仕方を要求される。個人戦では、レースのスタート直前までに、少しづつ気持ちを高めればいい。誰にもじゃまされず、集中しやすい環境がある。しかし団体戦は、レースが始まってから、自分の順番が来た瞬間に、最高の状態を作らなければならない。
個人戦では速いのに、団体戦になると途端に遅くなる選手は、自分の出番までの時間に、集中が途切れてしまうケースが多い。リレー競技は、慣れの部分も多いかもしれないが、周りの状況に惑わされないで、気持ちを整えられるという性格の人間に向いているようだ。
宇田川は、明らかにリレーに合った性格をしていた。もちろん個人戦でも速い、しかし、それ以上に団体戦での彼の泳ぎは、目を見張るものがある。
オリンピック。メドレーリレーの決勝。
宇田川が飛び込む瞬間、順位は五位だった。一位のアメリカ。二位のオーストラリアのリードは大きかったが、三位から五位まではほとんど差はなかった。しかし、三位のドイツの選手も四位のオランダの選手も、個人戦では決勝に残り、入賞していた選手だった。
特にオランダの選手は、宇田川と同じ、100m自由形で銀メダルを獲得していた。宇田川が五位で飛び込んだときには、応援団の中にも、メダルは無理だったかと諦めた人もいたかもしれない。
ドイツ、オランダ、日本、ほぼ同時に三発の魚雷が発射され、横一線のまま進み続けた。
観客席は総立ちで声を出した。差がつかないまま50mのターン。浮かび上がってから、ドイツ製の魚雷が遅れ始めた。
宇田川とオランダが抜けだし、豪快に水しぶきを上げながら壁に向かった。このときの宇田川の頭の中には、苦しさも辛さもなかった。ただ一定のリズムで手を動かし、足を動かす。
不思議と宇田川の耳には、仲間の声だけは、集中というフィルターを通り抜けて聞こえていた。三人三様の声、それを一語一句はっきりと聞き取っていた。
まるで、それまで泳いだ三人から力を得ているのような、鬼神の泳ぎ。応援団の盛り上がりも最高潮に達した。宇田川のリレーでのタイムは、個人戦のタイムを大きく上回っていた。
ゴールした瞬間、会場は静まり返った。三位と四位はほぼ同着。恐る恐る電光掲示板を振り返る宇田川。そのままマネキンのように、突っ立ったままになった。キャップを取った頭から水が流れていく。
日本三位。
宇田川は勝った。宇田川は人生最後の100mを、世界記録を上回るタイムで泳ぎ切っていた。
「やった。三位。銅メダルだ」
八代が喜びを押さえ切れず、飛び込んでくる。
赤坂も町も宇田川に向かってジャンプした。
彼らは水中でそれぞれを称え合い、みんなの夢が一つの結果を生んだことを心から喜んだ。悔しがるオランダチームも、おめでとうと握手を求めた。しかし、そんな喜びも長くは続かなかった。
控え室で表彰を待つ四人。
「オリンピックの表彰台に上がれるなんてな。ちゃんとテレビに映るかなあ」と八代。
「当たり前だろ。全世界に生放送だよ」
宇田川が陽気に言う。
「もしかしたら、俺たち日本に帰ったら、めちゃくちゃ有名人になってるんじゃない? タレントとかにスカウトされたらどうしよう」
赤坂は、相変わらず自分中心の発言をしていた。
「まあ、まあ、そんなに調子に乗らないの。すぐに忘れられちゃうんだから」
町が冷静に言う。
「寂しいこと言うなよ。確かにそうかもしれないけど今は考えないでおこうよ」
そう赤坂が言った時、野崎が入ってきた。水泳日本選手団の監督だ。
「宇田川」
「はい」
急に言われて、声が裏返る。
「お前、とんでもないことをしてくれたな」
「こいつの泳ぎが、とんでもなく速かったってこと? 今さらだなあ」
笑いながら言う八代。
「違う」
その強い口調で、四人は静まり返った。
「お前、薬を使っただろ」
「薬って、まさか。ドーピング?」
そう言って町が宇田川を見ると、残りの二人の視線も宇田川に注がれた。野崎は宇田川に、検査で陽性だったと告げた。しかし、ドーピングなどしていない宇田川は、何かの間違いだ。検査をし直してくれとでも言うはずだったが、まったく異なる言葉を口にした。
「はい……。薬を使いました」
「お、お前。嘘だろ」赤坂が喉を絞めつけられたような声を出した。
「すいません」
宇田川はゆっくりと頭を下げた。
さっき昇り始めた太陽は、すでに西の山にかかっている。
私は、時間というものは人間の意識によって、いかようにも変化するということを感じていた。昨日の一日も今日の一時間も、一年も経てば記憶の中では数秒に短縮される。このほんの一時間足らずだと感じている出来事も、実際は、きちんと一日が経過しているのかもしれない。この電車に乗っている自分が、今現在の自分なのか、未来の自分なのか判断できなくなってた。
「本当は実力で泳いだのに、どうしてドーピングをしただなんて言ったんです。あなたのおかげで、全員失格になったんですよ。あんな嘘を言わなかったら、四人でメダルをもらうことができたじゃないですか」
「嘘か……」
「もしかして、ドーピングで代表になったことを、まだ気にしていたんですか?」
宇田川は答えず、窓の外に視線を移す。
「オリンピックで、あんなにいい泳ぎをしたじゃないですか。それなのに、メダルを獲得できた喜びに浸っていた仲間を裏切るようなことを、いきなり言うなんて、あなたどうかしていますよ」
「見てください。夕日が綺麗ですよ」
「ちゃんと聞いてくださいよ」
私は、仲間の夢をぶち壊しにした宇田川の、自分勝手さに怒りがおさまらなかった。
あの場で、ドーピングしただなんて嘘を言ってどうなると言うんだ。真面目に努力していた仲間の夢を、奪っただけじゃないか。
「あなたは、ドーピングをしたと自白、いや、嘘をつき、水泳界を追放され、仲間も失ってしまった。あのとき、それは間違いだ言えば、もう一度検査してもらい、疑いが晴れたに違いないのに、そうしなかった。四人の仲間と、夢だったオリンピックの表彰台に立てたかもしれないのに」
「……」
「教えてください。どうして嘘をつかなければいけなかったかを」
彼の肩に触れたとき、微かな震えが伝わってきた。
「僕は水泳が大好きです。そして、それ以上に好きなのが、彼ら三人なんです。だから、嘘をつきました」
「えっ?」
三人のことを思って嘘をついた、という宇田川の言葉の意味が理解できなかった。
「マスコミの、僕に対するバッシングには正直、精神的に追い込まれたりもしました。けれど、後悔はしていません」
どこからか、冷たい空気が流れてきた。宇田川は天井に目を向けた。
「私は、あのオリンピックを最後に、引退することを決めていました。メダルをもらおうが、水泳界の恥だと罵られようが、もう二度と泳ぐことはなかったわけです」
「どうしてそんな覚悟を?」
「両親の看病をしていたときに、一度倒れて、自分も入院したことがあったんです。練習の疲れがたまっていたんだろうと思っていました。だけど、検査をしてみて、心臓の病気が見つかりました。それまでにも、何度も胸が苦しいことはあったんですが、不幸なことに僕は、練習のし過ぎなんだ、としか考えていませんでした。だから、もう手遅れで、余命一年を宣告されました」
「じゃあ……。もうすぐ……」
「僕が生きられるのは、あと数ヶ月でしょう」
宇田川が、どこか悟ったような目をしている理由が分かったような気がした。
私は少しバランスを崩した。電車が減速し始めたのだ。
「そろそろ駅のようです。僕は降りなければいけません」
「私も?」
「あなたは残ってください。僕だけです」
そう言って、宇田川は立ち上がった。
「待ってくれ。まだ、全部話してないだろ。ドーピングのことも、この列車に乗った訳もまだ聞いちゃいない」
宇田川は出口へと向かう足を止めた。
「この列車は、償い列車、と呼ばれています」
それだけ言うと、振り返ることなく宇田川は客室を出ていった。
「償い列車?」
この列車に乗って罪を償えっていうのか? ばかばかしい。そんなふざけた列車があるものか。
私がそう考えていると列車は無人の駅に止まった。緑に囲まれた田舎の駅だった。遠くに木造建築の小学校が見えた。
「ここはどこだ?」
駅のホームに目をやると、宇田川が降りてきた。私は声をかけようと、窓を開けた。すると、無愛想な車掌が降りてきた。
「あなた、病院の先生からこの列車のことは聞いてますよね?」
「はい。聞いたからこそ、この償い列車に乗ったんです」
顔を引きつらせながら宇田川は言った。
「死期が迫ったあなたは、自分の犯した罪を償うため、この列車に乗って旅に出た……」
車掌はあいかわらず、無表情に語った。
「死期が迫った人間か乗る列車? 死期が……」
そう呟いて、私はぎくりと背筋を伸ばした。
もしかしたら、私も、もうすぐ死ぬってことだろうか? だから渡辺先生が、犯してきた罪を償う旅に出ろと、あの切符をくれたのだろうか?
暑くもないの額に汗が滲んだ。私はそんな現実とは思えない話を、信じることはできなかった。
「あなたの旅の終着駅は、ここです」
「ここが僕の償いの場所……。ですか」
辺りを見回した宇田川は、表情を曇らせた。列車が発車すれば、人気のない場所に、彼一人が残されることになる。たった一人で地球に残されるような不安を、感じているのかもしれない。
「あなたが、この世にいる残りの期間、あの小学校で働いてください。それがきっとあなたの償いになるでしょう」
車掌の指差した先には、この列車が止まったとき、最初に目に入った学校があった。建物が古く、廃校になっていてもおかしくない。
「あの学校ですか……」
「何かご不満でも?」
「いえ。不満ではないんですが、僕はまだ二十歳で、教員免許も持っていないのに、教師なんてできるのかと」
「あの学校に通っている児童は、八人しかいません。だから、今まではプールがなくて、水泳の授業はなかったそうなんです。だけど、テレビであなたたちのような、すばらしい水泳選手の泳ぎを見て感動した子供たちが、水泳をやりたいって先生にお願いしたそうです」
「すばらしい……」
宇田川は皮肉と感じたようだった。
「それで校長先生が借金をして、校舎の裏にプールを作ったそうです。長さが10メートルしかない小さなプールです。それでも、今までプールで泳いだことのない子供たちは、泳げるってことを、この上なく喜んでいるそうですよ。けれども、まだほとんどの子供は、泳げないそうです。教員の数が少なく、水泳を教えることに慣れた先生もいませんからね。それで、校長先生は私に頼みに来たんです。子供たちに泳げるようになる喜びを、水泳をやる楽しさを教えてやりたいから協力して欲しいと」
「それで、僕を紹介したわけですか」
「紹介はしていません。もちろん私はあなたを紹介しようと思っていたんですが、校長先生の方から、宇田川君は今どうしているんだろうかと訊かれまして、事情を説明したらぜひ来て欲しいということでした」
私は奇妙な会話を、一語一句聞き漏らさないように集中した。車掌はいったい何者なのだろうという、このとき感じた疑問は、それから何ヶ月経っても消えなかった。
「僕のような、ドーピングをして、水泳界を追放になったような選手を、なぜ呼んだんですか?」
「さあ、どうしてなんでしょうねえ。菊池さんは無口な方でして、理由に関しては何も言ってませんでしたから。あっ、言い忘れていましたが、校長先生の名前は、菊池って言いいます。それは覚えておいた方がいいでしょう。挨拶するときに必要でしょうから」
「菊池……」
そう口に出して、宇田川の表情が一変した。子供に戻ったような柔らかな顔。
「もしかして、先生があの学校で、校長を……」
切ない目で学校の方を見つめる。
「知り合いなんですか?」
「その先生は、右目の上に傷がありませんでしたか?」
「ええ、確かにありました」
「間違いないです。昔、泳げなかった僕に、泳ぎを教えてくれた先生です。恥ずかしいことに、今の今まで先生の顔も名前も、忘れてしまっていましたが、やっと思い出すことができました。もう十年近く忘れてしまっていたあの優しい笑顔を、今ははっきりと、脳裏に映し出すことができます」
興奮したような声を出した。
私は、さっき宇田川がしていた話を思い出していた。純粋さを失うとともに、消えていった先生の記憶。競泳選手を辞めてから今日まで、彼がどんな日々を送ってきたのかは知らない。でも、水泳が嫌いになることはなかったのだろう。水泳を純粋に楽しむ心を取り戻したから、先生の思い出も蘇ったのかもしれない。
夕日が当たった彼の顔は、たくましく、選手時代のような勇敢さがあった。彼はこれから、短い期間かもしれないが、充実した日々を送ることだろう。
「ほんとに、いろいろとありがとうございました」
そう言って深く頭を下げた宇田川に向かって、車掌は、
「一人でも多くの子供たちに、水泳を教えてあげてください」
「はい。がんばります」
宇田川は私にも一礼してから、ホームを降りていった。もちろん、行き先は遠くに見える小学校だ。
「宇田川君、また会おう」
私の叫び声に宇田川は手を挙げた。
「宇田川。ちょっと待ってくれ」
どこからか聞こえた声に反応して見ると、無人だったはずのホームに人が立っていた。若い男が三人。
「お前たち、どうしてここに……」
宇田川の言葉で私は、その三人が、彼とともに夢を追いかけた仲間だということに気が付いた。彼の話を聞いて思い描いていた通りの三人だった。彼らも、宇田川の旅立ちを見送りに来たのだろう。
「俺たちに黙って行くなんて、水くさいなあ」
赤坂が言った。
「でも、僕はもうお前らとは……」
「仲間じゃないって言うつもりか?」
「……」
「それは、お前が勝手にそう思ってるだけだ。俺たちはもうお前が仲間じゃない、なんて思ったことはない。俺は、オリンピックのレースで、お前が薬なんか使っていなかったと信じている。いや、確信している。あの泳ぎは薬を使ったからできたものじゃない。努力した人間だけが見せることができる泳ぎだった。どうして間違いだった検査結果を、否定しなかったのかは知らないが、何でもかんでも一人で抱え込むお前のことだ、何か理由があったんだろう。だから、仲間じゃないだなんて、一度たりとも思ったことなんてないさ」
「ありがとう」
「それに俺たちは、お前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
赤坂の興奮を抑えるように、町がゆっくりとした口調で言った。
「待て待て、僕は急いでるんだ。お前らの長話を聞いてる暇はないよ」
そう言って歩き出す宇田川。
「待て、大事な話なんだ」と町。
「お、俺は、お前が緊張で喉が乾いたっていうから、緊張をほぐしてやろうと……」
八代が泣きながらしゃがれた声を出す。
「分かってる。分かってるよ」
宇田川の目も潤んできた。
三人は宇田川の震える肩をしばらく見つめた。
「まさか、お前。全部知ってて……」
「……」
無言で首を振る宇田川。
「俺たちは、次のオリンピックを目指している。今度こそ本当のオリンピックだ。お前の夢、俺たちの夢を、きっと叶えてみせるから」
町は、喉がすり切れるくら
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