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秘密の調味料

 世の中には、決してお客の絶えないラーメン屋が存在する。開店前から列ができ、独自の魅力的な味を求め、遠方より足を運ぶ客も多いという店。
 この話はそんな行列のできるラーメン屋の誕生物語である。


 客のいない店内は古い換気扇の音だけが、夏の夜に飛ぶ蚊のように、鼓膜にへばりついてくる。
 私は溜息混じりにカウンターに座り、窓から外を眺めた。重く垂れ込めた今にも泣き出しそうな雨雲が、自分の心の中にも入ってきそうなくらいに広がっていた。
「雨か……」
 小声で一言。
「ますますお客さんは来なくなりそうね」
 妻の美代子がしわ枯れた声でそう言った。白色がかった巻き毛を少々長めに伸ばし、華奢な黒縁の眼鏡を掛けている。
 妻の苦労の滲み出た白髪を見る度に、申し訳ないという気持ちが胸を支配する。
「昨日は三人、一昨日は二人。今日はまだ一人もか」
 私がぼそぼそとそんなことを言っていると、妻は眉間の皺を増やしながら、
「やっぱり、値段を下げましょうよ」
 と言い、私が無反応なのを見て、声を大きくして続けた。
「店の辺りは、市の中心部だし、お客さんは昼御飯を食べに来るサラリーマンの方たちばかりよ。それに、最近はチェーン店のラーメン屋も増えて、安くて美味しいラーメンを提供しているのよ。それは知っているでしょ? だから、うちのラーメンも値段を下げないとお客さんは来てくれないと思うの」
 妻の言うことはもっともだった。都会のど真ん中に、目立たなく建っている古びたラーメン屋では、そこそこ美味しいラーメンを出していたとしても、値段が安くなくてはお客は来てくれないのかもしれない。増してや今の外食産業は、不景気でどこも値下げ競争をしている。ラーメン業界も例外ではなかった。
「価格を下げることはできない。値段はそのままだ」
 私は雨雲を見上げながら言った。
「まだ、純一のことを気にしているの?」
「……」
「私も純一のことは心配だけど、私たちだってこれ以上どうしようもなくなっているじゃない。純一が帰ってきたときに、店がなくなっていたら、辛い思いをするのはあの子なのよ。だから……」
「だめだ。あいつは、昔、俺が値段を下げようかと言ったときに反対した。一度値段を下げたらもう二度と元には戻せなくなるし、安い店にはかなわない。それより、味で勝負しよう。誰も食べたことのない、至高の味を作り出そう、ってな。その時は、そんな言葉はきれいごとに過ぎないと思った。
 でも、あいつがいなくなってから、あの言葉だけは絶対に守ってやらなければいけない気がするようになったんだよ。そうしないと、二度とあいつは戻ってこない。そんな風に思えるんだ」
「もし、純一が帰ってきたらどうするの。あの子が望んだように、店を手伝ってもらうつもり?」
「それは、まだ決めかねている。あんなに否定してしまったしな」
 一人息子の純一が突然家を飛び出したのは、あいつが大学に進学した年の秋のことだった。
 初めは二、三日もすれば帰ってくるだろうと、たかをくくっていたが、三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。その頃から、本気で純一のことを心配し始めた。どこで何をやっているのだろうかと私は心配やら不安やらで、夜も眠れなくなっていた。夜中に玄関で物音がすると、飛び起きて見に行った。しかし、いつも風の仕業だった。
 妻は気苦労がたたって、寝込んでしまったのを覚えている。
 あれから二年、今ではもう二度と息子には会えないのかもしれないと思うようになっていた。
「ねえ、あなた」
 そう囁く妻の口調は、幼い我が子に呼びかけるように穏やかだった。
「あの日もこんな曇り空だったわね」
「ああ」
 私は雲を眺める目を細め、息子とした会話を思い出していた。


「父さん、やっぱり俺、大学を卒業したら店で働くことに決めたよ。何なら今大学を辞めたっていい。ねえ、いいだろ?」
 息子は相変わらず痩せすぎで、やたらと身体が細長く見える。ゆるいウエーブのかかった柔らかそうな髪を撫でながら、力のこもった目で私を見つめた。
「だめだって言っているだろ。何度同じことを言わせたら分かるんだ」
 私は調理場の水道を捻りながら答えた。勢いよく出しすぎた水が、服にかかった。
「何回だって言うさ。父さんが、いいと言ってくれるまではね」
 エプロンで手を拭きながら、わざと大きく溜息をついて、
「こんな店で働いたって辛い思いをするだけじゃないか。朝から晩まで働いて、一家三人暮らしていくので精一杯なんだぞ。余裕のある暮らしなんてできないんだ。せっかく大学に合格できたんだから、ちゃんと勉強して卒業するんだ。普通の会社に就職して、安定した収入を得る方がいいに決まってる」
「じゃあ、父さんはラーメン屋なんかやらないで、サラリーマンをやっていた方がよかった、幸せになれていたって思っているわけ?」
「ああ、そうだよ」
 私の歯切れの悪い返事に息子は言った。
「うそだね。絶対にうそだよ。俺は知っているよ。父さんがラーメンを作るときの真剣な目を。あの目は後悔なんてしている目じゃない。むしろ、幸せと喜びに満ちあふれた目だ。父さんを子供の頃からずっと見てきたんだ。だから、僕も父さんみたいになりたいんだよ」
「だめだ。ちゃんと就職しろ」
 私は息子に背を向けて、寸胴鍋を取りにコンロへと移動した。
「もういいよ。父さんなんか知らない。俺は勝手に生きていくよ」
 金属が破裂したような大きな音で振り返ると、濡れた床で中華鍋が揺れていた。目線の隅には大きな足音を鳴らして店から出ていく息子の姿があった。
 息子の姿を見たのはそれが最後だった。


 視界の隅にいた妻が、驚いたように背筋を伸ばすし、「いらっしゃい」とはきはきとした声で言った。お客が入ってきたのだ。
 私も椅子に張り付いていたお尻を剥がして、すっかり冷めてしまったスープを温めるためにコンロの火を点けた。
 お客は若い男だった。長身で、見るからに頑丈そうな身体付きである。まだ数回しか洗っていないような赤いTシャツと、使い古されたジーパンが細身の体によく似合っている。
 妻が注文を聞くと、彼は唇を拗ねたようにちょっと尖らせ、短い髪を手でとかしながら、「ラーメン一杯」
 無表情のまま言った。何の特徴もない普通のお客の仕草だった。
 床に下ろした鞄の隙間から分厚い本が覗いていた。どうやら大学生らしい。この付近には大学はないから、珍しいお客だということになる。
 私は準備運動のように首と肩を回すと料理に取りかかった。
 たとえラーメン一杯、餃子一人前だけだったとしても、丹念に全身全霊を込めて作るということが、今の自分にできる最大の努力だった。
 五分程度ででき上がったラーメンは、妻の手によって運ばれた。
 男は読んでいた雑誌を隣の椅子に投げるようにして置くと、割り箸を割り、器を覗き込んだ。そして、数秒臭いを嗅いでから、麺をすすった。
 私はその動きをつぶさに観察した。男が自分の作ったラーメンの味をどう判断するかを確認したかったのだ。
 彼は数本の麺を口に入れて、あからさまに眉をひそめると、まずいと言わんばかりに顔を遠ざけた。
――気に入ってもらえなかったか。
 長い溜息の後、私は頭を掻きむしりながら、また元の椅子に落ちるように座った。その時、再び立ち上がったのは、男の奇妙な行動を見たためだった。
 彼は床の鞄をひょいと持ち上げると膝に乗せ、中を探り始めたのだ。そして、すぐに奥の方からコショウの瓶を取り出し、満足げに微笑んだ。
――最近の若者はラーメンを食べるときに、自分で持参したコショウを使うのか?
 私は彼がラーメンに自分で用意したコショウをかけるのを、外国人でも見るかのような気持ちで眺めた。
 多めにコショウをかけた男は、豪快にかき混ぜると、レンゲでスープをすくい、口に入れ、味わうように目を閉じて飲み込んだ。その時の表情は、コショウをかける前に食べたときとはまるで別人のような優しい笑顔で、美味しそうに食べていた。
――まさか、コショウを入れたくらいで急に美味しくなったりしないだろうに。それにあれでは入れ過ぎだ。逆にまずくなってしまっているに違いない。
 私は男が美味しそうにラーメンをすすっていくのを、冷めた目で見ていた。内心では、こいつは味覚の狂った人間だ。ラーメンの味を正当に評価なんかできない奴だ。そう思っていた。
 男は食べ終わるとすぐに勘定を払い、足早に出ていった。
 私は、ありがとうございました、という声をかけるのも忘れて、店の床に視線を落としていた。
「変わったお客さんだったわね」
 妻が笑いながら言う。
「そうだね。近頃はああやって食べるのが流行っているのかねえ」
「さあねえ。そんなことは聞いたことがないけれど」
 そう言いながら、スープだけになった器を運んできた。すると突然、
「あれっ?」
 妻が声を上げた。
「どうした?」
「スープが、なんか変よ」
「そりゃあそうだろうよ。あれだけコショウを入れたら、元の色も味もなくなって、コショウの黒い色と、くしゃみをしちまいそうなくらいに鼻につく香りしかしないだろ」
「違うの。これを見て」
 妻が差し出した器に残ったスープを見た瞬間、私の顔の筋肉は硬直した。
「う、うそ」
 そのスープは、私が最初に作った、男がコショウを入れる前のスープより透明で、豊潤な香りがした。
「何だこれは。いったいどういうわけだ」
 私は思わずスープに顔を近づけた。
――あんなにたくさんコショウを入れたはずなのに、何でこんな美味しそうなスープになっているんだ。
 目の前にあるスープが現実のものだとは信じられなかった。
「よし。ちょっと飲んでみよう」
 私は器に口をつけて、恐る恐るスープを口に含んだ。
「どう? 美味しい?」
 私の顔を覗き込む。私は器から口を離すと、震える唇で、
「う、うまいよ。最高だ。お前も飲んでみろよ」
 妻は固まったままの私から器を奪うようにして取り上げると、スープを飲み込んだ。
「どうだ。信じられないくらいにうまいだろう?」
 大きな目をより大きく見開いて妻は、
「ほんとだわ。これがあなたの作ったラーメンだなんて信じられない。何が起こったのかしら」
 しきりに首を捻る。
「もしかしたら、さっきあの青年が入れていたのは、コショウなんかじゃなかったのかもしれない」
「どういうこと?」
「僕らの知らない調味料なのかもしれない」
「それを入れたら美味しいラーメンができるってこと?」
「きっとそうなんだろう。残念なことをしたな。もっと早く気が付いていれば、入手方法を聞くことができたかもしれないのに」
 私は慌てて外に飛び出したが、やはり青年の姿はもうどこにもなかった。
「また来てくれないかしら」
「そりゃあ無理だろう。さっきの様子だと、まず調味料を入れないで食べて、まずいラーメンだった時にだけ入れているみたいだったから、わざわざまたまずいラーメンの店になんか来ないさ」
「それもそうね」 
 コショウだなんて思い込まないで、もっとよく観察するべきだった。あの謎の調味料さえ手に入れることができれば、この店を繁盛させることができるかもしれない。息子が望んだような至高の味を作り出すことができたかもしれない。しかし、もう遅い。あの青年はもう二度と現われることはないだろう。


 意外なことに私の予想は裏切られた。次の日にまたあの青年が現れたのだ。
 彼が再び店を訪ねてきた時、私は丁度、餃子用の食材を切っていた。そのため、入り口に人の気配を感じても、包丁に目をやりながら、「いらっしゃい」と声をかけただけだったのだが、ふと視線を上げ、顔を見た瞬間に心臓が跳ね上がった。
「お、おい。またあいつが来たぞ」
 妻に囁くと、彼女は分かっていると言わんばかりに大げさに頷き、青年の座った席へと急いだ。
「ご注文は何でしょうか?」
「えーと。ラーメンひとつ」
 昨日と同じように無表情で言った。今日は黒いTシャツだが、ジーパンは昨日と同じもののようだ。もちろん、謎の調味料が入っていた鞄を持ってきていた。
「はい。お持ちください」
 いつになく緊張した面もちで注文を聞いた妻は私に、注文は聞こえていたよねと目で合図した。
 私はちらりちらりと青年に視線を送りながら、ラーメンを作った。彼は特に不自然な様子もなく、昨日と同じように雑誌を読んでいた。
――二日続けてくるなんて、いったいどういうわけだ? うちのラーメンが気に入ったというわけでもないだろうに。
 私は納得できないまま麺の湯を切った。
 できたラーメンはすぐに妻が運んだ。
「お待たせしました」
 青年は妻の言葉に何も答えず、雑誌を隣の席に放り、今日は一口も食べないで鞄の中からコショウの瓶を取り出した。昨日このラーメンが美味しくないことが分かったからだろう。
――あれだ。あの中に不思議な調味料が入っている。
 私はカウンターに身を乗り出して、青年の持つ小瓶の中身を見破ろうと目を細めた。見た目はどう見てもコショウだ。しかし、カップラーメンで使われているような粉末のスープだと言われればそうかもしれない。
 そうこう考えている間にも、彼はなにくわぬ顔で、粉末をご飯にかけるふりかけのように豪快にふりかけ、丹念に箸でかき回した。すると、濁っていたスープは瞬く間に透明になり、光を反射して黄金の光を放った。
「すごい。やはり昨日のスープはあの調味料の仕業だったんだ」
 私は口に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。美味しそうに食べる姿を見るのが我慢できなくなって、思わず声をかけた。
「す、すいません。今、ラーメンに混ぜた粉は何ですか?」
 青年はぴくりと眉を動かすと、目だけで私を見て麺を飲み込み、口を開いた。
「ああ、これですか。これは僕が調合した調味料ですよ」
「自分で作ったんですか?」
「はい。大学に入学してから時間を持て余すようになって、ラーメンの食べ歩きを始めたんですよ」
 青年は箸を置いて続けた。
「最初の頃は旅行気分で全国を回っていたんですが、美味しいラーメンを見つけても、遠い場所だともう一度食べに行くのも一苦労じゃないですか。美味しい店って田舎にあることも多いから、交通も不便ですしね」
「そうでしょうね」
 軽く相槌を入れた。
「だから、いつでも簡単に最高にうまいラーメンを食べる方法がないかと考えたんですが、行き着いたのが、どんなまずいラーメンでも、うまいラーメンに変えてしまう調味料だったんですよ」
「なるほど」
「そうは言っても、お店にとっては失礼な話でしょう。自信を持って提供しているラーメンに素人が勝手に調味料を加えるなんて」
――なるほど、そうかもしれない。
「だから、コショウをかけているように見せかけてこの調味料を使用していたんです。さらに、スープも残さず飲むようにしていたんですが、昨日はどういうわけかぼーっとしていてスープを残したまま帰ってしまいました。だから、あなたは残ったスープを見て、この調味料のことに気が付いたんじゃないんですか?」
「そうですよ。昨日そのスープを飲んで、頭をバットで殴られたような衝撃を受けましたよ。なんて美味しいスープなんだろうってね」
「勝手な味付けをして気を悪くされたのなら謝ります」
 ぺこりと頭を下げた。
「いえ、とんでもないですよ。むしろ感謝したいくらいです。私のラーメンを美味しくしてもらって」
 青年は愛想のいい笑いを浮かべた。それを見た瞬間、昨日から思い描いていた考えが涌き出てきた。
「あの、唐突なお願いなんですが……」
 私は頭に右手を乗せ、ゆっくりとした口調で言った。
「調味料の作り方教えていただけないでしょうか?」
 驚いたように背筋をぴんと伸ばした青年は、探るように私の目を見つめた。
 自分が苦労して作った調味料をそう易々と他人なんかに教えるわけがない、即座に断られる。そう覚悟していたが、彼の視線は意外にも好意的なように感じられた。
「本気ですか?」
「もちろんです。この店も経営に息詰まっていて、どうしても美味しいラーメンが必要なんです」
「しかし……」
「只とは言いません。ラーメンで稼いだ利益の半分をあなたに差し上げます。今は売上も少ないですが、調味料を使ったラーメンを提供できるようになれば、きっと流行るようになると思います。そうなったら、結構な額になるはずです。どうでしょう?」
 妻と私は青年の前に膝まついて懇願した。
「やめてください。土下座なんてしてくれなくても、調味料の作り方を教えてあげますよ」
 慌てて声を出した青年に向かって、
「本当ですか? ありがとう。恩にきります」
 掠れる声で言った。
 そして、青年は予想していなかった言葉を口にした。
「あなたが言うような、店の利益の一部もいりません」
「お金はいらないんですか?」
 青年の言葉を頭の中で反復してから私はそう言った。
「はい。代わりに一つ条件があります」
「条件?」
 何を言い出すのかと身構えた。
「僕の喜びは、美味しいラーメンを食べることです。だから、いつでもラーメンを只で食べさせてください。それだけですが、どうでしょうか?」
「もちろんいいですよ。毎日でも食べに来てくださいよ。なあ」
 無理難題を吹っかけられるのかと思っていた私は拍子抜けして、妻に問いかけた。妻は白い歯を見せて、「うん」と元気に言った。
「じゃあ、明日レシピを持ってきますので、待っていてください。レシピにタツノオトシゴを乾燥させて磨り潰したものっていうのがあるんですが、それだけは手に入れ難いから僕が持ってきますね。後の材料は普通のスーパーで買えるものばかりですから問題ありません」
「そうですか。では、よろしくお願いします」
 帰ろうとする青年に名前を聞くと、
「前川です」
 と早口で言い、店を出ていった。


 噂が広がるのは早いもので、それから一週間もするとお客が増え始め、一ヶ月を過ぎる頃には、昼時には行列ができるようになった。
 狭い店内にはいつもラーメンの臭いが漂い、寒い冬でも暖房を使わなくても汗が出るほどの熱気があった。そして、食べ終わると皆、美味しかったよ、とうれしい言葉をかけてくれた。
 妻は値段を下げなくてもお客は来てくれるようになったと大喜びで、噂を聞きつけて息子が帰ってきてくれるんじゃないかと、期待しているようだった。
 まったく調味料の作り方を教えてくれた前川君には、いくら感謝をしてもし足りない。
「こんにちは」
 店の入り口を見ると恩人が立っていた。
「ああ、前川君。一週間ぶりじゃない。どうしてたの?」
 妻が喜びの声を上げる。
「ちょっと大学の方が忙しくて、それにしても今日も繁盛していますねえ。席も空いていないみたいだから出直してきますよ」
「だめよそんな。私たちの住んでる部屋が空いてるからそっちでゆっくりと食べていってよ。すぐにラーメン作るから。ねえ、あなた」
「もちろんいいとも。上がってください」
 前川はゆっくりとお辞儀をすると、店の奥へ進んだ。四畳半ほどの広さで、ちゃぶ台とテレビだけが置いてある。白い壁は油で茶色く変色している。
「付近に大学があるっていう話は聞いたことがないけど、前川君の通っている大学はここから近いの?」
「近くではないんです。ここからだと電車を使って三十分くらいです」
「あら、そうなの。大学の側に下宿しているんでしょう? わざわざ来てもらっているみたいでごめんなさいね」
 最近明るくなった妻は、前川にラーメンを食べる暇を与えないほどに話し続けた。
 年齢が二十歳と、家を飛び出した息子と同じいうこともあって、息子の面影を彼から感じているのかもしれない。


 そうして数ヶ月がたった頃、私と妻は久しぶりに連休を取り、温泉宿へと出かけた。
 泊まりがけでの旅行などというのは、もう十年以上も行っていなかったため、二人とも大はしゃぎだった。
 妻が言い出したことだったが、店を休みにするということに最初は抵抗があった。しかし、今後のことを考え、体を休めることも重要だろうと思い行くことにした。
 思った通り、自然に囲まれた温泉地は私たちの疲れを癒やしてくれた。妻とは来てよかったねと何度も囁きあった。
 夕方になって、温泉での火照った体を冷まそうと、雪のぱらつく町並みを鑑賞しながら歩いていると、一件のラーメン屋を見つけた。
 縫い目の破れたのれんを掲げているなど、みすぼらしい感じが私たちの店に似ていて、私たちは引き寄せられるように入っていった。
「いらしゃい」
 愛想のない主人の言葉が聞こえた。
 私がラーメン二つ、と言うと、黙って細い腕を動かし始めた。
「感じ悪いわね」
 妻が呟く。
 まったくだ。これでラーメンの味もまずかったら最悪だ。などと主人の動作を観察しながら考えていた。
 簡単にできるはずのラーメンは私たちの体がすっかり冷えきった頃にでき上がった。
「お待ち」
 乱暴に置かれたラーメンは、黒く濁っている上、しょう油臭くてとても美味しそうには見えなかった。
 なんだこれ 心の中で舌打ちしてからスープを飲んでみた。見た目ほどまずくはなかったが、それでも食欲をそそる魅力はなかった。
 妻も同じらしく、さっきまでの笑顔は消え、眉間に皺が寄っていた。
「あんまり美味しくないわね」
 妻は私にだけ聞こえるように言った。
「大丈夫だよ。こんなこともあろうかと思って、これを持ってきたから」
 私がコショウの瓶を取り出すと、妻はぱっと頬を緩めて、
「それって、もしかして」
「そう。前川君に教えてもらった調味料さ。彼はどんなまずいラーメンでも美味しくなるって言っていただろう?」
「実際、うちのラーメンだってあんなに美味しくなったんだから、このラーメンもこれさえかければ、とびきり上等のラーメンに変わるはずだよ」
「そうね。どんな味になるのか楽しみだわ」
 私は躊躇せず、一気に降りかけ、手早くかき混ぜた。
「げっ、何で?」
 思わず声を出し、額に嫌な汗が噴出した。目の前のラーメンは調味料を入れる前よりも黒く濁り、きつい異臭が漂っているのだ。
「お客さん。そんなにコショウを入れてどうするんです。ラーメンがまずくなっちまいますよ」
 カウンターの向こうから、店主の嫌味が聞こえた。
 もとからまずかたっただろと言い返す余裕もなく、どうしていいのか分からないままラーメンを見つめた。
「あなた。どういうこと? まさか、間違えて、本当にコショウを持ってきたんじゃないでしょうね」
「ち、違うよ。そんなドジをするわけないだろう。臭いを嗅いでみろよ」
 私の差し出した瓶に鼻を近づけた妻は目を瞑って、鼻をひくひくさせた。
「あら、本当。毎日うちで作っている調味料だわ」
「だろ? でも、どうして美味しくならないんだろう」
――もしかして、見かけはこれでも中身は美味しくなっているのだろうか?
 切羽詰まった私はそう考えて、レンゲですくったスープに口を付けた。
「ま、まずい」
 さっきより明らかにまずくなっている。
 そんな私の様子を心配そうに見ていた妻は、
「もう食べない方がいいんじゃない。お腹壊すわよ」
 優しく言ってくれた。
「どうして美味しくならないんだと思う? むしろ最初よりまずくなっているんだ。僕たちのラーメンはあんなに美味しく変化したのに」
 妻は黙ったままラーメンに視線を落とした。
 私は目の前の出来事が現実であることを理解するにつれ、調味料の作り方を教えてくれた張本人である前川の行動に関する今まで見えていなかった、もしくは気付こうとしなかった不信な点が、酔っぱらった次の日に後悔する時のように、あからさまに見えてきた。  
 愚かなことに、うまいラーメンを作ることができると有頂天になって喜んでいるあまり、彼の言うことをすべて信じてしまっていたのだ。
 黒い不安が私の胸に、染みのように徐々に広がっていった。
「そうか、そうだったのか」
 体の震えは机を伝わり、妻にまで届いた。
「どうしたの急に」
「前川君。通っている大学は近くではないし、住んでいる場所も遠いんだったよな。だとすると、どうしてあの日、彼が初めて来た日、うちみたいな小さくて目立たない店になんか入ったんだと思う?」
 妻は目だけを一瞬天井に向けてから言った。
「そりゃあ食べ歩きが趣味だったら、いろんな店を回るだろうから、うちに来てもおかしくはないと思うわ。それに適当に入って万が一まずかったとしても、調合した調味料さえ使えば美味しくなることは分かっていたから、食べるのはどこでもよかったのかもしれないわ」
「それが間違いなんだよ」
 大声を出した私に、妻は驚いて目を剥いた。
「僕たちは彼に騙されていたんだ。彼の話を聞いた時は、これから自分たちがとびきりうまいラーメンが作れるってことで冷静な判断ができなくなっていただけさ」
「どういうこと?」
「分からないか? ラーメンの味っていうのは、だしを鶏からとるか、豚からとるか、牛からとるか、あるいは、それらを合わせてとるかとか、ベースにしょう油を使うかみそを使うかとかいった数多くの要素で成り立っているものだろ。
 だとすると、一種類の調味料を入れることによって全てのラーメンを美味しくするなんてことは不可能だ。合うものには合うかもしれないけれど、ほとんどの場合は味がこんがらかってしまって、逆にまずくなるのがおちだよ。このラーメンのようにな」
「それなら、どうしてうちのラーメンは美味しくなったの?」
「考えられることは一つだ」
 私は妻の目を睨むように見た。
「あの調味料は、うちのラーメンを美味しくするためだけに作られたものなんだ。他のどのラーメンに入れても役には立たないのさ」
 見ると、妻は口を開けたまま私の顔を理解できないといった様子で眺めている。
「そう考えれば、ラーメンの食べ歩きが趣味の彼が立ち並ぶラーメン屋の中から、うちのような無名のラーメン屋に迷わず入った理由も、調味料はうちでしか使えないからと納得できるし、二日連続で来たこともせっかく作った調味料を使いたかったということで理解できる。
 あっ、もしかしたら、一日目にスープを残して行ったのはわざとかもしれない。調味料のに気が付いて欲しかったんだよ」
「で、でも、どうして、うちなんかのラーメンを調味料まで調合して美味しくしようなんて思ったのかしら?」
「それは分からないよ。以前に一度食べて、このラーメンは改良できそうだと思ったのかもしれないし、たまたま選んだだけかもしれない。
 それ以上に疑問なのは、彼がお金を儲けようとしなかったことだな。恐らくあの調味料を作るのにはかなり苦労しているはずだ。うちのラーメンの味を知り尽くした上で、何が足りないかを見極めていかないといけないからな。僕らが何十年もかかってできなかったことを彼は一人でやってのけたんだ。そんな魅力的な調味料なら多額の料金を要求してもいいはずだろう?」
「そうよね。あなたが利益の半分をあげると言ったのにもらおうとしなかったわ。もしかしたら、ボランティアで流行らない店を立て直してまわっているのかもしれないわね」
「世の中にそんな奇特な人がいるわけないだろ」
「今度彼が店に来たら聞いてみましょうよ。どうして私たちの店を助けてくれたのかって」
「助けようなんて思っちゃいないだろう。どうせろくでもないことを企んでいるに違いないさ」
「そうかもしれないわね」
 頬杖をついて言う。
「もうあのラーメンは僕たちだけのものだ。二人のがんばりがあったからこそ評判の店になったんだよ。前川がいまさら何か言ってきたって、無視したらいいだけさ」
「今度やって来たら、化けの皮を剥いでやりましょうよ」
 店を出ると、すっかり冷えきった体に雪混じりの風が吹きつけ、さらに体温を奪っていった。私たちはコートの襟を立てると、寄り添うようにして旅館へと向かった。


 旅行から帰り、一週間ばかりが過ぎた頃、前川青年が店に現れた。
 私は今聞いたばかりの注文も忘れて、彼の腕をつかむと、今や彼の特等席になった店の奧へと引っ張り入れた。
 お客におしぼりを渡していた妻も、能面のような顔をして走ってきた。
 私と妻のいつもとは違う緊張しきった態度に、いつも通りの格好をした青年は、戸惑った様子で何か言おうとしたが、私の顔を見た瞬間に口を閉じた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけれど、いいかな?」
 前川は靴を脱ぐまで待って欲しそうな顔をしていたが、相手の答えを聞かずに私は続けた。
「あんた。何を企んでいるんだ?」
「企むっていうのはどういう意味ですか? 僕はただラーメンを食べに来ているだけですよ」
 そう言うと、脱ぎ終わった靴を揃えもしないで、畳を這った。
 私も後を追うようにして、彼の特等席の真ん前に陣取った。
「とぼけるな。あんたが教えてくれたあの調味料。うちのラーメンにしか使えないんだろ?」
 刹那に見せた前川の焦りの表情を見逃さなかった私は、更に続けた。
「先週、休みを取って旅行に出かけたんだ。その時に食べたまずいラーメンに調味料を入れたけど、いっそうまずくなるだけだった。つまり、この調味料が他のラーメンには役に立たないってことだろ」
「偶然でしょう。合わないのも稀にはありますよ」
 明らかに声が震えている。
 妻が横から口を出してきた。
「違うわ。ここ何日かで、近所のラーメン屋をまわって調味料を試してみたけれど一度だって美味しくなったことなんてなかったわ。それも偶然だって言うの?」
「……」
「ふざけないでよ。どんなラーメンでも美味しくする調味料だなんて大嘘じゃない。こんなことして、いったい何が目的なのよ」
 唐辛子のように頬を紅潮させて、ヒステリックに捲し立てる妻に青年は唇を震わせ始めた。無理もないことだった。これまで、親切にしてくれていた人に突然、怒鳴られたら誰でも萎縮してしまうだろう。
「どうせ、この店が繁盛しきってから、金をせびるつもりだったんだろうが、金は一銭もやらんよ。あんたは、最初に利益の半分をやるという私の申し出を断ったんだからな。何を企んでいようとあんたにやるのは、一杯のラーメンだけだ」
 この時に、すでに自分の中に根付き、成長していたおごりという醜い花に気が付くべきだった。いや、もっと何年も前に気付き、その芽を摘んでおくべきだったのだ。
「待ってください」
 私が次の言葉を発しようとしたのを止めるように両手を突き出した。そして、大きく深呼吸した。
「分かりました。ばれてしまったのなら仕方がありません」
「やっぱり騙していたのね」
「まあ、待てよ。彼の話も聞こう」
 言いたいことをぶちまけて、少しすっきりしていて私は、妻の攻撃を止める余裕があった。彼は改めて、口を開いた。
「あなたの言う通り、調味料はこの店のラーメンのためだけに作られたものです。僕は他の店で調味料を試しに使ったこともないし、ラーメンの食べ歩きが趣味だなんていうのもうそです。普段行くのは、近所のラーメン屋くらいですから」
「本当は、ラーメンはそんなに好きじゃないって言うのか? それなら、どうやって調味料を作ったんだよ。あんなすごい調味料、並大抵ではないラーメンへの情熱がないとできないはずだろ」
「もちろんですよ。あれを作った人間は、ラーメンに対して、いや、この店のラーメンに無限の愛を持っていましたよ」
「ちょっと待て。あれを作った人物だと。調味料を作ったのは君ではなくて別な人物なのか? 誰だ、そいつは」
 そう言った瞬間に、ある人物が浮かんだ。うちのラーメンに詳しく、そして尽きることのない愛を持っている人間。
 妻も同じだったらしく、甲高い声で、
「もしかして、純一?」
 前川はこくりと頷く。
「やっぱりあんた純一の知り合いか、純一は今、どこにいるんだ。知っているんだろ。頼む教えてくれ。私たちのたった一人の息子なんだ」
 前川は顔色一つ変えないで、
「家かもしれないですね」
 とぽつりと言う。目を細めて、窓越しに遠くを見つめるその表情は私の心に、喉越しが悪く、気持ちのすっきりとしない何かを予感させた。
「家? あんたの家なのね」
 立ち上がろうとした妻を制して、彼は言った。
「違います。彼が生まれ育った、この家ですよ。彼がずっと帰りたいと願っていたこの場所、この空間に来ているんじゃないでしょうか」
「何をふざけたことを言っているんだ。どこにもいな……」
 口を開けたまま、前川を凝視した。
「まてよ、さっき、あんた息子がこの店のラーメンに愛を持っていたって言ったよな。何で過去形なんだ?」
「そ、それは……」
 口篭もる前川に代わり、私は自分で答えを見つけた。その答えは、この一年間、何度も頭に浮かびかけたが、その度に消し去ってきたものだった。
 それを私は今、胸の奥で連呼している。後悔の念を込めながら。
「そ、そんな。息子に何があったというんだ」
 私の感情はどこまでも、どこまでも、暗い闇の中へと落ちていった。
 前川は下を向いたまま、瞬き一つしないで握った自分の拳を睨み付けた。
「ねえ、前川君。あなたの口からはっきりと聞きたいの。私の息子、純一はこの家を出ていって二年になるけれど、当然、まだ生きているわよね」
 当然というところを強調して、優しく語りかけた。
 妻はまだ自分の頭に忽然と現れた考えを、現実のことだとは信じられないようだった。 前川は視線を目の前の机と私たちの顔の間を、何度もさまよわせた後、とうとう口を開いた。
「今まで黙っていてごめんなさい。彼、前川純一君は僕が初めてここに来た日の一週間前に亡くなりました」
 妻が私に寄りかかるように倒れてきた。全身が小刻みに震えていた。妻から伝わる振動は、次第に私の体の奥深くに届いてきた。
「何があったのか、説明してもらおうか」
 前川は、失踪した純一が悩み、苦しみ、考え抜いて出した結論。そして、彼の決意を実行するために、通らなければならなかった苦難の道を丁寧に語り始めた。


四ヶ月前。
「遅かったね。お前が遅れて来るなんて珍しいじゃないか。道でも込んでいたのか?」
 場所は安アパートの一室。純一は約束の時間に遅れてきた前川にお茶を出そうと、やかんでお湯を沸かしているところだった。
「いや、そんなんじゃないさ。もうすぐ試験が始まるだろ。お前、最近大学にほほとんど来てないから、困っているだろうと思って講義のノートをコピーしに行っていたんだよ。だから、ちょっと遅くなったんだ」
「それはありがとう。でも、僕にはもう必要ないから他の人にでもあげてくれ」
「必要ないってどういうことだよ。ちゃっかり、もう他の友達からもらったのか?」
「違うんだ。実は……」
 そこまで話した時、やかんが沸騰した音が部屋中に響きわたった。
 ちょっと待ってと立ち上がった純一は、前川に背を向けたまま急須にお湯を注いだ。舞い上がってくる湯気を避けるように体を反らすと、
「今日、わざわざ来てもらった訳なんだけどさ」と言った。
 前川は純一がさっき言おうとしたことも気になっていたが、今すぐ来てくれと呼び出された理由も知りたかったため、黙って次の言葉を待った。
「食べて欲しいラーメンがあるんだ」
「ラーメン? そうか、お前ラーメン好きだもんな。もしかして、ラーメンの食べ歩きに行こうって言うんだったら、パスさせてくれよ。お前と違って、ラーメンを食べるためだけに遠くの田舎町まで行くのは嫌だからね」
「違うんだ。ただ、今ここで俺の作ったラーメンを食べて欲しいんだ」
「へえ、純一が自分で作ったラーメンか。ラーメンマニアが作るラーメンがどういう味なのか興味があるね。そういえば、実家もラーメン屋だったよね」
 純一は笑顔になった。
「実家のラーメンを再現してみたんだ。食べてくれるか?」
「いいよ。丁度お腹も減ったし、一緒に食べようよ」
 純一は手際よくラーメンを準備した。部屋に似つかわしくないほどの高級な料理道具と世界中から集められた調味料が代わる代わる使われていった。
 プロ顔負けの腕を目の当たりにして、前川はかけるべき言葉も見つからないまま、ただラーメンができ上がるのを待っていた。
「お待ち」
 机の上に置かれたラーメンはもうもうと湯気を出し、食べてくださいと訴えかけていた。「これが、お前のラーメンか」
「まあ、とりあえず。何も言わないで食べてみてくれ」
 前川はいただきますと手を合わせると、熱々のスープに箸を入れ、豪快に麺をすくい上げた。そして、息をふうと二、三度吹きかけてから、一気にすすった。
 純一は黙ったまま、前川をじっと見た。
 前川は少しばかり困惑な表情になって、首を傾げた。もう一度、ラーメンを口に入れたが、また同じように首を振った。
「味はどうだ?」
「……うーん。良く言って普通かな。厳しい意見を言う奴なら間違いなくまずいって言うよ。でも、素人が作ったラーメンとしてはうまいと思うよ」
「いや、いいんだ。俺もまずいと思っているから」
「えっ?」
「じゃあ、次にこれを入れて見てくれ」
「コショウじゃないか。なんでそんなものを今さら入れるんだよ。僕はラーメンはコショウなしで食べることにしているから、いらないよ」
「いいから、入れてみろって」
 純一は横から手を出して、コショウを振りかけた。
「ああ、そんなに入れたら真っ黒になっちまう」
 そう口走った前川は、目に映るスープの変化が信じられなかった。
「どういうトリックだよ。濁っていたスープが綺麗な金色になるなんて」
「食べてみてよ」
 前川は箸を突っ込み、麺を引き上げると、今度は息を吹きかけて冷ます時間も待ち遠しいといった感じで、そのまま口へと入れた。
「うまい。これはうまいよ。さっきとはまるで違う」
 それだけ言って、野生動物のように目の前のラーメンをかっ食らった。
「美味しいか……。それはよかった」
 ぽつりと呟く純一。
 そして、彼は自分の実家のラーメンを美味しくするために、世界中のありとあらゆる調味料を調査、研究して、特製調味料を完成させたことを語った。
「しばらく学校にこなかったのはその調味料を作っていたからなのか。なんで僕に相談してくれないんだよ。友達だろ。いつでも手伝ってやったのに」
「自分で勝手にやろうとしたことだから、自分でやり遂げたくてな」
「でも、調味料入りのラーメンを見たらお前の両親も喜ぶだろうな。お店のラーメンがこんなにも美味しくなったてな。もう、店には持って行ったのか?」
「まだだよ。というか、俺は持って行くつもりはないんだ」
「何で?」
「お前に持って行ってもらおうと思っている」
「何だって。何で俺が?」
「実は今日来てもらったのは、お前にその調味料を俺の実家の店に持って言ってもらう役を頼みたかったからなんだ」
「そう言えば、お前、実家を家出同然で飛び出して、まったく帰っていないんだったよね。恥ずかしいっていう気持ちも分かるけれど、自分で持っていったほうがいいんじゃないのか?」
「駄目なんだ」
 純一は爪を噛みながら、悔しさの滲む目を向けた。
「俺は数ヶ月後にはこの世にいない」
「えっ?」
「春に大学でやった健康診断で病気が見つかったんだ。血液の病気らしいが、長くは持たないらしい。残された命は長くて一ヶ月だろう」
「一ヶ月……」
 だから講義ノートもいらないのか。前川は縮み上がった心臓に手を当てた。
「俺の最後の頼みだと思って、調味料を持って行ってはくれないだろうか」
「待てよ。それならなおさら、お前が持って行くべきなんじゃないのか? それを持って行って両親と仲直りしろよ。病気のことも言わなくちゃいけないだろう」
「お前は、俺の両親のことを何にも分かっちゃいない。あいつらは、口先では努力しているなどと言ってはいるが、実際は何もしない。傲慢でおごり高ぶった連中だ。
 さっきのラーメンを食べただろ。あれがうちのラーメンの味だ。あれでお客がどんどん来ると思っているんだから話にならないよ。だから、俺がこんないい調味料を持って行ってでもしろ。楽して美味しいラーメンが作れるって、益々、調子に乗って取り返しのつかないことになる。
 それに、もうほとんど貯蓄もないだろう。下手をすると借金があるかもしれない。そんな奴らに病気の話なんかしたら、店を売ってでも俺を病院に行かせるだろう。ああ見えても子供に対する愛情はあるようだからな。どうせ助かりゃしないんだ。延命治療の必要はない。俺は生まれ育ったあの店さえ繁盛してくれれば思い残すことはないんだよ」
 不器用な言い方だったが、前川は、純一の両親に対する愛情を十分感じていた。
「でも……」
「どうしても自分で行けない理由が一つある。実はこの調味料はまだ未完成なんだ。調合する材料が一つ足ないんだ」
 そう言って、純一はポケットを探って、一枚の紙切れを取り出した。
「これがレシピだ」
 前川は純一の真剣な眼差しを感じながら、紙を広げ、紙に書かれた文字に目を通した。
 最後に来た時、大きな声を出した。
「おい、純一。この材料って……。本気か?」
 そこに書かれた文字が信じられない前川は、何度も冗談だろうと言ったが、純一は本気だということを態度で示した。
「俺は自分が病気だということが分かってから、残り短い人生で何ができるのだろうかって毎日考えた。そして、俺が死んでも両親には決しておごることなく、店を繁盛させ、幸せに生活して欲しい、そう願う気持ちが大ききなっていったんだ。それで、調味料を使ってラーメンを美味しくするっていう方法を考えたんだ。それを、お前にも手伝ってもらいたいんだ。頼む」
「……」
「俺が死んでからの段取りが書いてある。この通りにやってくれればいい」
 前川は純一が机においた紙に目もくれず、
「もう、いいよ。お前は一度言い出したら、引かない奴だからな」
「そうか、やってくれるのか。ありがとう」
 純一は目に涙を浮かべている。
「最後にもう一度聞くけど、レシピに書かれた最後の材料は絶対に必要なのか?」
「必ず入れてくれ。それだけは自分で準備できないから、それを手に入れたらお前の手で調合してくれ」
 純一の目は希望に満ち溢れていた。


 前川はそこまで話し終わると、ごくりと唾を飲み、渇いた口を潤すように舌を動かした。「レシピの最後に書いてあったのは何だったんだ?」と私。
「これが純一から預かったレシピです」
 前川は二人に見えるように机に広げた。
「これが、あいつのレシピ……」
 全身の力が抜け、口を開ける力もでなかった。
「純一が私たちのことをこんなにも考えていてくれたなんて、どうして気が付いてやれなかったんだ」
 悔しくて私は机に腕を振り下ろした。
「純一の願いは、あなた達が、店を繁盛させて幸せに暮らしていくことです。辛いことだとは思いますが、どうか、あの調味料を使ってラーメンを作り続けていってください」
 純一は分かっていた。私たちにあの調味料を自分で渡してしまうと、最初は美味しいラーメンが作れるようになったと喜んで真剣に働くだろうが、すぐにそれが当然のようになって、怠け、手を抜き始めることを。
 実際、これだけ美味しければお客は自然にやってくるだろうと、知らず知らずのうちに手を抜き、ラーメンの味を落としていたに違いない。その証拠に僅かだが、お客が減り始めている。そしてずるすると時が過ぎ、二度と美味しいラーメンが作れなくなってしまっていたかもしれない。
 私たちが手を抜くことが分かっていたから、純一はレシピに最後の原料を加えたんだ。最後の原料を知ったとき、私たちがどう思うかも計算して調味料は考えられていたんだ。
 純一がどんな思いを込めて調味料を作り出したか。それが分かった今、どんなことがあっても、もう二度と手を抜くようなまねはしないと誓った。
「こないだ教えてもらったレシピには、最後の材料は書いてなかったけれど、今私たちが使っている調味料は未完製品ってことか?」
「いえ、違います。渡したレシピの最後には乾燥したタツノオトシゴの粉末とかいてあったと思いますが、私が準備すると言って持ってきましたよね。実は持ってきた材料はタツノオトシゴなんかじゃなくて、レシピに書かれた最後の材料だったんですよ。騙したみたいになってすいません。そういう段取りでしたので。ですから、あなたが毎日使っている調味料はすでに純一の考えたレシピそのままなんです」
 私は純一の考えていたことが全て分かって安心した。あいつはこの友人のことを心から信頼していたに違いない。
「純一はあんたのような良い友達を持って幸せだった。さっきは怒鳴ったりして悪かった。許してくれ」
「騙していたのは僕の方ですから、怒られて当然です」
「またいつでも来てくれ。来る度により美味しいラーメンを準備して待っているから」
 前川は笑顔で、はい、と答えた。
 机の上に広げられたレシピの最後には、俺の骨粉、と力強い字で書かれていた。


 以来、このラーメン屋にお客が絶えることはなかった。誰もが皆、ラーメンの味の虜になっていったのだ。
 皮肉なことに数年後、店の主人栄一が、息子と同じ血液の病気で亡くなり、店はなくなってしまったが、未だにラーメンの味を忘れられずに、空き屋になった店を訪ねてくる人も多いと聞く。
 この秘密の味を求めて……。
 

 END